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【音楽】

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 Nicolai Myaskovsky (1881-1950)
ニコライ・ミャスコフスキー

 ニコライ・ミャスコフスキー。
 彼は、ロシア軍機関将校の息子としてワルシャワ郊外の要塞で生まれた。

 当初は軍人志望で、エンジニアの訓練過程を経るが、音楽への思いは断ち切れず、1896年、チャイコフスキーの「悲愴」を聴くに及んで、彼は作曲家になることを決意する。
 サンクトペテルブルグ音楽院に1906年入学、リムスキー=コルサコフ、リャードフなどに教えを受けた。この頃の重要な友人関係としては、セルゲイ・プロコフィエフとのものが挙げられる。彼らは大きく年齢が離れていたが、お互い刺激し合った。
 1911年、彼は音楽院を卒業、サンクトペテルブルグの教員になる。同時に批評家としての活動も開始する。第一次世界大戦に徴兵され、負傷して内勤(タリンの海軍要塞)となり、21年まで赤軍で働いたのち、モスクワ音楽院作曲科の教授となる。
 ロシア五人組的な、絢爛たる艶爛たる管弦楽的技法を誇る彼は、モスクワ音楽院でカバレフスキーやハチャトゥリアン、シェバリーンなどを教え育てた。
 また、交響曲に力を注ぎ、生涯で27曲もの交響曲をつくる。27曲という作品数は、モーツァルト以来最大の数である。1946年に「人民芸術家」の称号を得るが、1948年には「形式主義」の批判を受けている。このときは、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフと並んで「もっとも糾弾すべき三人」とされた。

 もっとも、これらをもってミャスコフスキーが体制派か反体制派かを論じるのはたいへん愚かなことであり、当時のソ連はスターリン以外いつでも体制から弾かれる可能性があった。また、政治的にはともかく、音楽的には完全にスラヴロマン主義の王道であり、先人の道を踏み外すことの余りない保守派であることは疑いない。

 彼は「形式主義」の批判を受けた翌年、胃ガンの診断を受け、そのまま翌1950年、帰らぬ人となる。
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