Peteris Vasks (b.1946-)
ペーテリス・ヴァスクス



 それぞれの民族には、ナショナリスティックに作られたにせよ、自然醸成的に立ち上がったにせよ、「民族の記憶」というものがある。日本においてそれは、参戦 - 敗戦および高度経済成長の記憶だろうか。或いは、明治維新から「近代のめざめ」の記憶だろうか。
 バルト三国と呼ばれる小国が、ロシアの西にひっそりと固まっている。バルト三国、つまりラトビア、エストニア、リトアニアの三国は、歴史上、幾度となく強国ロシアによる併合と独立を繰り返した。そして第二次大戦中の1940年、事実上ソ連に併合され、強力な統制下におかれる。
 じつに半世紀もの間、ソ連邦の西端地域の座に甘んじていた三国だが、ソ連書記長ゴルバチョフによってペレストロイカ(改革政策)が主導されるようになった1980年代後半から、再び国内に民族独立意識が滾るようになった。1990年に呱々の声をあげたエストニアのフライング的独立は、まだ辛うじて余力を遺す赤軍に制圧されるが、1991年3月、変革の予感のなか、ソ連(ゴルバチョフ)による「改革連邦の維持」国民投票を拒否したバルト諸国は、ソ連の8月クー・デタを経て遂に念願の独立を果たす。半世紀もの間、毛色の違う統制の下で堪え忍んだ日々、そして1991年の独立、それらはやはり、バルト諸国にとって「民族の記憶」と呼べるものだろう。

 1946年、ヴァスクスはバルト三国の一角・ラトヴィアのアイズプーテに生まれる。父はバプティスト派の牧師。宗教は民衆を鈍磨させ麻痺させる「阿片である」という宗教政策をもつソヴィエト、いかな毛色の違うラトヴィア国内とはいえ、ソヴィエトの圧政いちじるしい当時においては、バプティストは迫害の対象であった。それゆえヴァスクスはラトヴィア国内の音楽大学に進学することができず、隣国リトアニアのビリニュス国立音楽大学に入学する。作曲はほとんど独学で学んだといわれる。

 同じ東欧の作曲家、ヴィトルド・ルトスワフスキに大きな影響を受けているといわれる。彼の作品にはラトヴィア民謡然とした素朴な旋律、あるいは自然を描写したような柔らかな表現があるいっぽうで、それが圧され、破壊されたような表現、粗野極まる響きがある。どちらの方向にふれるにせよ、表現は生のものであり、直接的で強烈である。それは柔らかな表現にしてから、そうである。
 生々たる、直接的な、魚でいえばマグロの遊泳のごとき作曲家、だといえよう。

 すばらしい作曲家は(往々同郷の)すばらしい演奏家に恵まれる。ショスタコーヴィチにおけるムラヴィンスキーやロストロポーヴィチしかり、リヒャルト・シュトラウスにおけるカール・ベームしかり、歳は離れているがルトスワフスキにおけるツィマーマンしかり。そして彼ヴァスクスにとってのその人は、やはり現代の名ヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルである。クレーメルもやはりラトヴィアの出身、類い希なる表現力で、ヴァスクスのスコアを十全に音にすることができる。近年は「クレメラータ・バルティカ」と名付けられた、バルト三国出身の音楽家で固められたオーケストラも組織しており、ヴァスクスの代表曲のひとつである《遠き光》〜ヴァイオリンと弦楽オーケストラのための協奏曲、はクレメラータ・バルティカに献呈されている。

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 かれは、弦楽のための交響曲《声》(交響曲第1番)について、次のように語っている。
 弦楽のための交響曲《声》は1991年に完成した。それは末期症状にあったソヴィエト帝国の弾圧と、バルト三国の国民による徒手空拳の抵抗運動のさなかだった。戦車、流血、ラトヴィアとリトアニアにおける犠牲者。忘れがたいバリケードの日々。1991年6月14日に私はスコアを書き終えた。その日、バルト三国ではいたるところで半旗が翻っていた。

 ちょうど50年前の1941年6月14日、ソヴィエト支配下における最初の大量国外追放措置が生じた。女子供を含むバルト三国の国民集十万人が、窓に格子をはめられた貨車に乗せられてシベリアの強制収容所に運ばれたのだ。それは死を意味した。
 彼の当該作品に見られる重苦しい響きは、「民族の記憶」によるものである。

 ヴァスクスは1997年、《遠き光》でLatvian Grand Music Awardを得た。

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