忠度に使用する「中将面」。在原業平をモデルとしたといわれている。貴族などに使われることが多い。


岩波文庫版『平家物語』全四冊セット。
当時の芸能鑑賞の基本教養であった『平家』、現代語訳やら作家私本訳やらあるけれども、やはり原文で読みたい。注釈が豊富で割に読み易い。なお、現代語訳はついていない。

■能楽名曲紹介
忠度
【修羅物】

◆作者
 世阿弥
◆季節
 春(3月)
◆場所
 摂津・須磨の浦

◆登場人物
 ワキ   旅僧
 ワキツレ 従僧(2人)
 シテ   老人
 アイ   所の者
 後シテ  忠度

◆予備知識

 忠度とは、薩摩守とも呼ばれる平忠度のことで、『平家物語』に登場する重要人物の一人です。当代の和歌における重鎮・藤原俊成の弟子で、自らも歌の名手であるこの忠度は、『平家物語』巻第七にて、都落ちのおりに自分の歌を俊成に託して死への道を進んでいきます。俊成はのちに勅撰和歌集として『千載集』を編み、その中に忠度の歌も収録されますが、朝敵となったこともあり、忠度の名前を入れることはできず「詠み人知らず」として収められた、そこまで『平家物語』では言及されます。
 忠度は巻第九にて討死しますが、その際、箙に結わえ付けていた歌が、後に出てくる
行き暮れて木の下陰を宿とせば、花や今宵の主ならまし
というものです。不慮の死に遭わざるをえなかった、風流の心もてる若き将軍として、庶民的人気は高かったものと思われます。

◆あらすじ

 歌人・藤原俊成に仕えていた者(ワキ)が、彼の没後、僧となり西国に旅に出ます。津の国須磨の浦に辿り着いたところで、磯辺に一本の桜の木を見つけ、愛でるべく近くに寄ります。すると潮汲みの老人(シテ)が現れ、この須磨の浦のうら寂しさに言及しつつ、この桜はある人の墓標の木であるので「薪に花を折り添えて、手向をなして帰らん」といいつつ花を供えます。旅僧はこれに声をかけ、「山賤にておはしますか(この土地の山人ですか)」と尋ねますが、老人はこの浦の海人であると答えます。海人ならば海に住むはずだが、あなたは山に出かけている…と訝る旅僧に、老人は「藻塩を焼く塩木のために通ひ来る」と述べます。さらに、「須磨の若木の桜は、海少しだにも隔てねば、通ふ海風に、山の桜も散るものを」と地謡とともに述べます。
 日も暮れたので、と旅僧が一夜の宿を頼むと、老人は「うたてやなこの花の陰ほどのお宿の候ふべきか(なんとまあなさけないこと、この花の陰ほどのお宿が他にありましょうか)」と答えます。風流な答えに対し旅僧は、「げにげにこれは花の宿なれどもさりながら、誰を主と定べき(確かにこれは花の宿というべきだが、主といえば誰になりましょうか)」と答えます。老人は「行き暮れて木の下陰を宿とせば、花や今宵の主ならまし」という薩摩守(忠度)の歌をひきつつ、この花が主人なのだ、そしてその歌を詠んだ方は、一ノ谷の合戦で敗れ、この木の下に眠っているのだ、いたわしいことだ、と答え、回向を頼んで消えます。

 〈中入〉

 忠度(後シテ)が現れ、『千載集』に自分の歌が入ったのは喜ばしいことだが、しかし朝敵ゆえに「詠み人知らず」として詩歌を入れられたことを嘆きます。また僧に対し、俊成の子息である藤原定家に、「しかるべくは作者をつけて賜び給へ(できることならあの歌に、作者の名前をつけてくださいませ)」と伝えるよう依頼します。
 忠度は地謡にあわせて舞いつつ、地謡は忠度の生まれと、また都落ちのさいに俊成の邸まで行き、自分の歌を託したこと、また最後の出撃の様子と、武蔵国の岡部六弥太という者に首を取られた様子を語ります。
 忠度は「妄執の中の第一(心残りのことのなかの一番のこと;自分の歌に名前を入れてほしいこと)」を伝えたかった旨を話し、「わが跡弔ひて賜び給へ(わたしの跡を弔ってください)」と述べて、忠度は消えます。

◆上演時間
1時間30分

◆みどころ
 修羅物でありながら、修羅の世界の苦しみを述べることがない曲です。まるで、まさに『平家物語』で描かれる忠度のような、清冽な余韻があります。
 忠度の面は中将面を使用します。「妄執」すら典雅である若き忠度の恬然たる舞姿は風流の一言でありましょう。

(2014.12.23 updated.)
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