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spatium artis ( 2014.12.22 updated ) | |||
Pallade e il centauro | |||
パラスとケンタウロス | |||
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【部分図。クリックにて拡大】 |
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■梗概 ボッティチェッリ得意の寓意画。右側はパラス。パラスとはパラス=アテナともいうが、ローマ神話におけるミネルヴァに対応する。知恵、技芸、芸術、戦略の神とされており、神話学上はアレースのような荒ぶる戦争の神ではなく、いわゆる専守防衛型の戦争の神であるということになっているが、実際にギリシア神話を読んでみるとトコドコで喧嘩を売っているような印象が強い。 半人半獣のケンタウロスの髪を無造作につかんでただ事の雰囲気ではないが、パラスの眼差しは罰しようとしているそれではなく、理性的な、いわば説得のそれである。大斧を掲げていることで力は背景にしているが、獣性を統御しようとしている姿をあらわしている。尤も、これを「ネオプラトニズム的な、理性による野蛮の統御を示している」とする解説書もあるが、ネオプラトニズムは直接関係ないだろうと思われる。 もちろん、このテンペラ画が作成された時代以降、フィレンツェにはやがて碩学フィチーノによりプラトン・アカデミーが創設され、ネオプラトニズムおよびヘルメティシズム全盛の時を迎える。しかしながらネオプラトニズムで支配するのは理性ではなく、シェイクスピア『ハムレット』に出てくる台詞「きれいはきたない、きたないはきれい」に典型的に見られるように、あらゆる可能なもののアマルガメーション、混淆である。それまでの「正統文化」たる、つまりは陰陽でいえば「陽」のアリストテレス主義に、初めは対抗する形で、のちにはアマルガムを起こす形で登場する、何でも飲み込むブラックホールの如き「陰」としてのネオプラトニズムという対比が成立するのであってみれば、ネオプラトニズムと理性とは直接相容れない関係になるのではないかと思われる。 この絵は、むしろルネサンスに典型的な、人本主義的理性主義を背景に生まれてきたものであろう。 |
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ケンタウロスを処罰するわけではなく、また何かを強制するわけでもなく、ただ冷徹な、もっといえば視線のはっきり定まらないパラスの眸を描写している。 視線がケンタウロスを捉えないことにより、パラスの理性的な立場が明らかになる。 彼の有名な《プリマヴェーラ》の女神も彷彿とするような、馥郁とした立ち居振る舞いである。 |
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髪の毛をパラスに掴まれているケンタウロス。 基本的にギリシア神話において、ケンタウロスはいたずら好きの好色という立場であり、ここでは獣性を象徴している。 パラスの冷静な表情との対比が非常に面白い。 |
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半獣のケンタウロスの下半身と、パラスのヴェールをまとった美しい下半身の対比。 衣服に刻まれている、指輪が三つあわさったような紋章は、メディチ家の紋章のひとつである。メディチ家から注文を受けて制作されたものだろうと思われている。 |
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