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【能】 ◆哀しきときも扇子一つで舞い踊り◆
能のたのしみ


 能楽師が橋掛かりを、衣擦れの音とともに登場し、舞台中央、音声を発すると後方より謡が始まり、それとともに能楽堂の空気が変わり始めます。われわれの時間感覚は次第に、シテの歌舞に巻き取られ、空間を切り裂く大鼓の音にずたずたにされて、舞台中央に回収されます。われわれは時間を失っていきます。

 能はわけが分からん。
 能は難しい。

 一部のひとは「能は一度、見たいんだけれども……」という枕につづいてこう、仰有います。そしてそれは恐らく正しいと思われます。能は狂言と違って、説明的ではないからです。いきなり観衆を置き去りにして始まりますから、何の予備知識もなしで能楽堂に座っていると、ただゆるやかな時間の経過のみが感じられるだけ、という経験に終始する場合があります。あるいは、大地から湧き上がってくるような地謡の声に、わけがわからぬまま身をゆだねていると、その単調な音調にいつしか心地よい気分となり、気付けば舞台そっちのけで睡魔と戦っている(しかも防戦一方の)自分に気付きます。
 個人的には、眠くなれば眠ればいいと思うのです。わからん状態で謡を聴いても、よほど古語に自信がある人間でない限りは、一聴して意味を過不足なく読み取ることはできません。それよりも地謡に身を浸しつつ、シテの歌舞を注視し、感興得るものがなさそうであれば心地よく眠ればいいと思うのであります。それは決して恥ずかしいことではございますまい。また、自分のコンディションがある段階にあって、なおかつシテの歌舞が何かであれば(としか言いようがないのですが)、何もわからなくても突然引き込まれるということはあり得ます。たまさかの感興を待ちつつ、流れに身を浸す。観衆の特権でございます。

 昔は、いまのように沢山楽しみがあるわけではなく、楽しみのなかの一形態である、文学に浸るための作品だって今ほど沢山あったわけではないと考えます。当時からありつづけ、しかも読む人聴く人を魅了し続けた文学作品のひとつが『平家物語』でございます。おそらく、能を鑑賞する程度の人々にとって、『平家物語』の内容は、みな予めわきまえていておかしくない「教養」の一だったと考えられます。
 かんがえてみれば、現在の肩肘張らぬ仲間との飲み会だって、あらかじめの知識がなければ楽しみは減殺されます。たとえば、ビールが入ったコップを差し上げて「ルネッサーンス!」という者がおもしろいと感じられるためには、あるお笑い芸人の芸を知っている必要があります。
 「教養」というのはあまり難しいものではなく、「楽しみを楽しむための予備的な楽しみ」という程度のものでございます。『平家物語』を読んでおかなければ修羅能がわからん、とかと肩肘張る必要はいささかもないのでありますが、やはり知らぬよりは知っておいて舞台に臨むほうがより、玩味することができる《可能性がある》ということであります。


 さて、能は、大きく分けて5つの種類があります。

・翁と脇能物……翁は五穀豊穣を祈るもの、脇能は神社縁起などを語る、ともに祝い物です。
・修羅物……修羅とは「修羅道」のこと。主人公が幽霊となって縁を語ります。
・鬘物……女の人、また木々の精などが登場する、一般的に優美な能です。
・雑能物……「それ以外」扱いの能です。
・切能物……化け物が出て来る能で、面白い面を使うことが多い能曲です。

 翁付五番立といって、翁に引き続いてこれらを五曲いっぺんに、間に狂言を挟みつつやるという、全のせつけ麺みたいなプログラムもありますが、多くの場合このジャンルから数曲選んで上演されます。

(2009.1.3 updated.)
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