後シテ「井筒の女」に使われることが多い〈小面〉。若い女の人を表現している面であり、ベタだがわたし自身も最も好きな面である。



《井筒》では、上のような小道具「すすきと井桁」を用いて井筒を表現する(日本文化振興会サイトからお借りしました)


岩波文庫版『伊勢物語』。この辺りは学校の古文の授業で読まされてアレルギーがある人が多いと思うが、歌ものとしての伊勢物語は古典入門としてとてもいいように思われる。歌だけパラパラ見ても楽しい。
■能楽名曲紹介
井筒
【鬘物】

◆作者
 世阿弥
◆季節
 秋(9月)
◆場所
 大和・在原寺

◆登場人物
 ワキ   旅僧
 シテ   女
 アイ   櫟本の者
 後シテ  井筒の女

◆予備知識

 曲中登場する業平とは在原業平 (825-880) 。阿保親王の第5子で、惟喬親王と懇意でありましたが、当の惟喬親王が皇太子になれなかったため、政治的には不遇の生涯でありました。業平は日本史の教科書などにも出てきますが高名な歌人であり、六歌仙のうちの一人でもあります。10世紀に成立した『伊勢物語』の主人公でもあり、情熱的な歌をよくすることで有名です。
 また、後シテである「井筒の女」については、業平の妻でありますが、これは紀有常の娘であるとされております。一説では、史実上、在原業平と紀有常の娘とはかなり年齢が離れており、そうなると後にも記すように業平と「幼友達」でもあったはずの「井筒の女」と有常の娘とは同一視し難いところもありますが、『伊勢物語』の古註『和歌知顕集』によると「井筒の女=有常の娘」であると記されておりますので、以降それを前提に記載していきます。
 この《井筒》という曲には美しい歌が出てきますが、それらはこの『伊勢物語』から引用されています。なかでも最も有名なものが、曲名とも直接関連する、
筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生ひにけらしな 妹見ざる間に (伊勢、第23段)
というものです。「幼少の頃から井筒(井戸の囲い)と背比べをしていたわたしの背が、もう伸びてしまった、あなたと会わない間に」という意味で、筒(つづ)と当時の業平の年齢 19 (「つづ」;なお本来古語では「つづ」とは十のことだが、ここでは誤用されており、作品上の内意は19歳で間違いない)がかかっていること、また「見ない間に成人してしまった、もう結婚できる年齢になった」という求婚の意味も含まれています。
 その返歌である、女(紀有常の娘)が贈った歌、
比べ来し 振分髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰か上ぐべき (伊勢、第23段)
も有名で、これはまさに「比べ合ってきた髪も肩を過ぎてしまった。あなた以外に誰がこの髪を結い上げて妻にしてくださいましょう」という意味です。
 また、国語の教科書などにもよく収載されている名歌である、
風吹けば 沖つ白波龍田山 夜半にや君が独り行くらむ (伊勢、第23段)
というものも登場します。元々は『古今和歌集』に「詠み人知らず」として登場するこの歌でありますが、『伊勢物語』第23段では、この歌を有常の娘が夫を案じて歌ったものとして収録されています。
 さらに同じく、有恒の娘が愛人のもとに行ってなかなか帰って来ない夫に対して詠んだ歌、
あだなりと名にこそ立てれ桜花 年に稀なる人も待ちけり (伊勢、第17段)
「桜の花は実がなくて散りやすいものとされているが、一年のうちにまれにしか帰って来ないあなたを、このように待っているのである。わたしはあなたより誠実であるようだ」という歌も、元々は『古今和歌集』に「詠み人知らず」として収載されているものですが、『伊勢物語』第17段に同じ歌が井筒の女が詠んだ歌として収録されております。
 ほかに出てくる歌としては、
梓弓真弓槻弓年を経て わがせしがことうるはしみせよ (伊勢、第24段)
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして (伊勢、第4段)
などがあり、曲に華を添えています。

◆あらすじ

 諸国を遍歴する旅僧(ワキ)が南都七堂(奈良七大寺)に到着します。初瀬(にある長谷寺)に行きたいと思うが、人に聞くとこれは在原寺ともいうので、それに立ち寄って一見したいと述べます。旅僧は独り語りに、この在原寺は在原業平と紀有常の娘が夫婦となって住んだ場所だが、いまは夫婦ともこの世に居ないので、二人をともども弔うことにしましょうと語ります。すると優美な里の女(前シテ)が現れ、こちらも人の世の定め無さを独りごちながら井戸の水を汲み、古塚に手向け、合掌します。旅僧は、あなたはどういう方ですかと問いますが、里の女は、この辺りに住む者で、この寺の願主業平の墓もこの辺りか存じ上げないが、業平の跡を弔っていると答えます。旅僧は、「昔語の跡なるを、しかも女性の御身として、かやうに弔ひ給ふこと、その在原の業平に、いかさま故ある御身なるらむ(昔の物語の古跡であるのに、なおあなたのような女性がそのように弔われるのは、さてはその業平にゆかりがある方ではないのですか)」と問いますが、女は、ゆかりはないと答えます。しかし地謡を借りて、在原業平の名ばかりは今も残っている、草茫々のこの古塚は、「跡懐かしき気色かな(昔懐かしい気持ちがする)」と女の心が謡われます。さらに業平のことを詳しく語ってくれるように乞う僧に対し、女は「風吹けば 沖つ白波龍田山 夜半にや君が独り行くらむ」、「筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生ひにけらしな 妹見ざる間に」、「比べ来し 振分髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰か上ぐべき」のそれぞれの歌にまつわる恋物語について聞かせ、紀有常の娘とも井筒の女とも言われたのは恥ずかしながらわたしである、と述べて、井筒の陰に消え去ります。

 〈中入〉

 夜、在原寺で仮寝の体である僧のもとに、業平の形見の直衣を着た姿で、井筒の女が現れます。「あだなりと名にこそ立てれ桜花 年に稀なる人も待ちけり」という歌を歌ったのも自分なので、「人待つ女」とも言われたのであると語ります。続けて、今や業平もこの世を去ったので、形見の直衣を身につけ、昔男業平に乗り移って、舞を舞うことにしようと述べ、〈序の舞〉を舞います。自分の姿を井戸の水に映し、業平の面影そのままであると業平を追慕するうちに、女の姿は消え去り、僧の夢は覚め「夢は破れ明けにけり(夢が終わって夜が明けた)」と終幕します。

◆上演時間
1時間55分

◆みどころ
 歌物語ともいうべき『伊勢物語』をベースにしているだけあって、歌にあふれた名曲です。また、後半で井筒の女が業平の直衣を身につけて舞いつつ業平自身を追慕する姿、また懐かしがりやがて消え去る姿は、愛情の究極の形のひとつとしての「相手との同一化」、そして過ぎゆく時の虚しさ、を表現して見事の一言に尽きます。

(2014.12.24 updated.)
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