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【能狂言】
能と狂言の違いについて


 能も狂言も、多くの場合は同時に体験されます。能狂言上演のポピュラーなプログラムは、まず能があり、狂言が挟まり、再び能で終わる、という構成となっています。わたしは「ハンバーガー構成」と密かに呼んでおります。能がパン、狂言がパティです。

 能と狂言の違いについて一言でいえば、

 能=歌舞劇
 狂言=台詞劇

 ということができましょう。歌舞によって型を呈示し、音響的な「謡」はあるものの、伝達的言語を介在しない、いわば「思い浮かみ」による「巻き込み」を事とする能に比較して、狂言はずいずいと台詞が登場し、極めて言語介在的・説明的です。
 あるいは、時間感覚的にいえば、こういう言い方もできましょうか。能は、乗り物に乗るようなものです。自分が動いていても、乗り物とともに移動している限り、体感的には、周囲が動いているように思われます。能は多くの場合物語劇であり、実話かあるいはそれに準ずる話であり、われわれに同一の時間を過ごさせます。戯画的にいえば、われわれの纏っている「時間」を、歌舞によって絡め取り、巻き込み、引き込んでいきます。われわれは清盛とともに生き、清盛とともに呼吸し、そして清盛とともに泣きます。
 いっぽう、狂言に関していうならば、乗り物に乗っている太郎冠者を、外から眺めるようなものです。彼らはわれわれに「共感」をさせてくれますが、同じ時間を「共有」することは赦してくれません。少しわれわれと距離があって、しかしユーモアはとても説得的で、距離があるからこそわれわれは安心して笑うことができます。

 もうひとつ、違うところがございます。
 能楽研究家・戸井田道三が『狂言』という好著で書いています。
能のシテが「失せにけり」の地謡とともに消え失せてどこへ行くのか分からないに反して、狂言で「やるまいぞ、やるまいぞ」という追い立てとともに幕へ入るのは、社会へ出て行くのだ、といっていい。
 恐らく能のシテは、夢幻の如く消え去るのだと考えます。われわれの心には鏡像としてのシテが映っています。それは、ことばによって作られたものではない、何か混沌とした、しかし強い、印象のようなものです。「型」が残した印象は、「失せにけり」で実体が消え去ることによって、よりその強さを増します。
 いっぽう狂言に関して、太郎冠者と主人に見えるのは生活です。彼らは「やるまいぞ」ののち、イニシエーションを経て(そのイニシエーションは多くの場合主人による叱責でありましょうが)社会に出て行く。むしろ社会に出るためのイニシエーションを想像させることによって、現状回復への契機を、すなわちは生活への復帰を、強く想像させるものです。

 生活としての狂言と、印象としての能。
 パティはパンに挟まれることによって、またパンはパティが挟まることによって、それぞれの味わいを深くします。生活は印象に包まれ、そして二つながら心にしまったわれわれ観客は、自分のなかに強い経験の核(コア)を得た思いで家路につくのでございます。

(2009.1.3 updated.)
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