※注釈1)
ミホエルスは、かつてショスタコーヴィチの交響曲第8番が非難の矢面に立たされた際に、敢然と作曲家を擁護した人物でもある。

※注釈2)ミホエルスの葬儀に参列したショスタコーヴィチは、この迫害と粛清がインテリゲンツィア全体に及ぶと考え、「ミホエルスの立場がうらやましい」と述べた。

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第六部 二枚舌

 西の独裁者は収容所をつくり、ガスによってユダヤとユダヤ文化を廃絶せしめようとした。表向きには人種の優劣が持ち出されたが、その極度に政治的で、極度に犯罪的な振舞いにどの程度彼の私怨が含まれていたのかについては諸説ある。
 権力闘争のおり、党内外の有力なユダヤ人政治家・革命家と争わなければならなかった、グルジア生まれの東の独裁者も、ユダヤ人問題では西のそれとほとんど変わることがない排他性を発揮した。戦後、ユダヤ人やその知識階級に、スターリンは圧力をかけ始める。
 1948年1月13日、白ロシア首都ミンスクの路上で、ユダヤ人の出自をもつ、天才的俳優のソロモン・ミホエルス(※注釈1)が車に轢かれて死んでいるのが発見された。彼はユダヤ人反ファシズム委員会に属しており、戦後、反ユダヤ主義の道を大っぴらに進み始めたスターリンにとって目の上の瘤であった。政府官僚がミホエルスを自別荘におびき出し、そこで殺した上でトラックに轢かせたというのが、スターリンの死後、側近ベリヤが語った暗殺の真相である(※注釈2)

 ジダーノフ批判において名指しで非難され、演奏禁止リストに作品が載ったショスタコーヴィチは、当時ユダヤ音楽に範をとった音楽を作曲中であった。歌曲集《ユダヤの民俗詩より》である。尤もここに政治的意図はなく、名指しで批判されたことに対する回答であり、彼は「民主的で、美しい旋律を持ち、大衆の理解に耐える」作品を作る上で、ユダヤ音楽の半音階的手法、イディッシュ語の発音、およびそのテキストを用いたのだった。
 しかしながら、ミホエルスの殺害に徴されるように、スターリンによるユダヤ排斥運動、そしてジャーナリズムによるシオニズムへの攻撃はここにきて大きな高まりを見せていた。危機感を抱いたショスタコーヴィチは、この作品を「引き出しに仕舞う」ことになる。

 ジダーノフ批判からこのかた、ショスタコーヴィチの仕事は減る一方であり、彼はやむなく映画音楽を作ることで糊口をしのいだ。1948年9月にはレニングラード音楽院教授職も解雇され、プロパガンダ映画に音楽をつけるという、ショスタコーヴィチを「異常なまでに消耗」させる作曲が続いた。
 一年後の1949年、ニューヨークで開かれる世界平和文化科学会議に、代表団の一人として参加するようにという達しが、ショスタコーヴィチのもとに届く。彼は一度断るが、スターリンから直接電話で参加要請を受ける。ショスタコーヴィチはその際に「国内においてはプロコフィエフやハチャトゥリアン、それから私の作品など演奏されていないではないか」と口を滑らせたが、スターリンは「わたしはそんな指示は出していない」と返答し、これが思わぬことに、先に述べた1948年2月の「演奏禁止令」の撤回につながった。彼は不本意ながらアメリカに渡り、検閲と監視と絶え間ない指導の中、「ソ連指導部が求める国家代表」像を、演じた。

 1949年10月、スターリンは自然改造(大植林)計画を発表する。それに〈霊感を受けた〉ていで1949年の夏期休暇の間に書き上げられ、発表されたのがショスタコーヴィチのオラトリオ《森の歌》である。同時代の詩人ドルマトフスキーの詩――スターリン礼賛思想を過剰に含む――をもとにしたオラトリオは、たとえば作曲家ミャスコフスキーに「簡潔だが躍動的で、魅力的」という印象を与えるものの、当局に尻尾を振って骨を得たという印象はぬぐえず、実際作曲家本人も、11月15日に初演されたあと帰ったホテルで、枕に顔を埋めて号泣したと伝えられる(当時の愛人ウストヴォリスカヤによる)。生活が苦しいなか、そして体制への忠誠を音楽で示すよう圧力がかかり続けるなかで体制賛美の《森の歌》を書かざるを得なかったショスタコーヴィチ。彼に誰が疑問を呈し得よう。

 彼はこのあとも、《革命詩人の詩による十の詩曲》(1951)をはじめとして、いわゆる「プロパガンダ音楽」を作る。しかしそれに並行して、彼は公開を目的としない作品、つまりは本心からの楽音、ヴァイオリン協奏曲第1番、ピアノのための《24の前奏曲とフーガ》など、不滅の名作を、いわば引き出しの陰にかくれて、作っていった。彼の創造力は、度重なる無理解と迫害を受けて、遂に「底に潜った」のである。
 《24の前奏曲とフーガ》は、ライプツィヒで作られた。1950年7月、ライプツィヒの大バッハ生誕200年記念国際音楽祭に招かれたショスタコーヴィチは、バッハの見本に刺激され、また「ポリフォニーを弾く技術的訓練のために」、前奏曲とフーガを一曲ずつ、何日かに一曲の割合で作り、当該音楽コンクールピアノ部門で優勝したタチアナ・ニコラーエヴァに弾いて聞かせた。

 だが、猛威をふるい、数多の偉人を吹き飛ばし、善人悪人併せ呑み、地に叩き付けた巨大台風も、いずれ弱まる時期が来る。スターリンとの戦いが終わるのも、教条主義的矯正主義との戦いが一段落するのも、そう遠い未来ではない。

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