※注釈1)
 この成功によってショスタコーヴィチは、市内にアパートをひとつ買っている。

※注釈2) プラウダ批判の文章主要部は以下の通り▼《オペラが始まった瞬間から、聴衆は故意に作られた耳障りで荒唐無稽な音の流れに面食らう。断片的に旋律や未発達の楽想が聞こえても、それらは騒音、摩擦音、金属音の海の中でおぼれ、傍若無人にあがき、そして、再び消えてゆく。この「音楽」は聴くのも困難だが、それを思い出すことなど不可能である……また同時に、音楽批評家を含む現代の批評家たちは「社会主義リアリズム」の名にかけて、次の様に厳粛に宣言する。ショスタコーヴィチの作品はこの上なく下品な、自然主義的な舞台を生み出した。》

【補筆1】 ゴーリキーがモスクワ郊外で死んだのは1936年6月18日。インフルエンザにかかり、一時重体に陥るが、モスクワ、レニングラード両市から呼ばれた医師の治療によって一時的に回復しながら、まもなく死去した。公式見解ではトロツキーの指示で医師が毒殺したことになっており、いっぽうトロツキーは、スターリンの指示で部下が毒殺したと主張している。結果的にみればこのゴーリキーの不審な死は、大粛清が始まる号砲となった▼有名どころでは同年8月に政治家カーメネフ、ジノヴィエフの公開裁判→銃殺が行われる。大テロルの幕は開いた。

【補筆2】 楽団員が曲の難解さ、もしくは陳腐さ、あるいは新奇さに叛乱を起こすというのは歴史上しばしば見られる。たとえば有名曲でも、ブルックナーの交響曲第3番初稿は、団員の拒否(理由は「演奏不能」)にあって1875年に予定されていた初演が頓挫している。今はアマオケも水準が高いので、そういう椿事を余り聞かないのは残念なことである。

※注釈3) モスクワから練習の様子を見に来た指揮者アレクサンドル・ガウクが伝えてのちの初演指揮者コンドラシンが広めたもの▼ガウクは、「明らかにシュティードリーがこの曲を理解していなかった」と述べた。

※注釈4) 家族の被害;義兄フセヴォロド・フレデリクス→逮捕、姉マリア→中央アジアへ追放、義母ソフィア・ヴァルザル→強制収容所、友人で内務人民委員部(NKVD)高官ドンヴロフスキー→粛清、保護者の一人トゥハチェフスキー元帥→裁判後銃殺▼ショスタコーヴィチ当人が語るところによれば、彼もNKVDに呼ばれ、元帥との関係などを尋問されたが、彼を尋問していた管理官自身が逮捕されたので彼は釈放されたという笑い話みたいな話がある。

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第三部 赤いツァーリズムに巻き込まれる

 ショスタコーヴィチの大作オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は1934年1月22日に初演、大当たりを取る。レニングラードとモスクワ両都市での上演回数は1935年末までに177回に達し、経済的には無論のこと、社会的上昇も作曲者にもたらした(※注釈1)

 1934年8月半ば、彼はチェロ・ソナタの作曲を開始した。彼の人生にしばしば見られることだが、人生の苦悩や葛藤に直面したとき、彼は作曲に逃避する傾向がある。このときもそうであった。当年の5月に行われた音楽祭に参加したショスタコーヴィチは、そこで通訳をしていた20歳の女子学生エレーナ・コンスタンチノフスカヤと愛人関係に陥り、妻ニーナとの関係が悪化していた。1934年12月25日、この作品はボリショイ劇場の元主席チェリスト、ヴィクトル・クバーツキーによって初演されている。

 1936年1月26日、評判の《マクベス夫人》を見に、最高指導者スターリンがボリショイ歌劇場にやってくる。しかし舞台が始まり、裏で緊張しつつ様子を見守る作曲者たちを後目に、スターリンは劇途中で帰ってしまう。それまでにもスターリンはショスタコーヴィチの一部音楽に苦言を呈しており、悪印象を得たに違いなかった。
 そして二日後――党中央機関紙『プラウダ』に、「音楽の代わりの支離滅裂――オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》について」という無署名の論文が掲載された。
 このオペラに対する悪意に満ちた論文……告発文(※注釈2)は、ショスタコーヴィチのみではなく、全ソ連の芸術家たちに、「社会主義リアリズムという名のスターリニズム」に忠誠を誓うか、それとも死を選ぶか――「芸術的な」死でなければ「肉体的な」死を――、という選択を迫ったものだった。
 自らの芸術活動が本質的に自由である(はずだ)と信じた一群の芸術家たち、たとえば作家マクシム・ゴーリキー、演出家メイエルホリドなど第一級の芸術家たちは、敢然とショスタコーヴィチ擁護にまわり、社会主義リアリズムによって目の敵にされていた「前衛的・実験的創造」の必要性を訴えた――そして、スターリニズムによって蠅のように殺された。

 劇場に彼の作品はかからなくなり、ピアニストとしての声もほとんどかからなくなった。収入は五分の一に減った。そんな中、彼は敢然と、交響曲第4番の制作に没頭する。着手されたのは1935年6月、苦難の「プラウダ批判」をはさみ、翌1936年4月26日に完成している。しかし予定されていた初演は結局なされることはなかった。理由は明確でないが、初演指揮者シュティードリーがこの難曲を理解出来なかったからだという説(※注釈3)、楽団員が曲に叛乱を起こしたという説、当局の横暴に萎縮して自ら撤回した説などがある。いずれにせよ、第4番は約25年後の1961年(12月30日)に初演されるまで、長い眠りにつくことになる。

 粛清の嵐は、第二次大戦の開始を前にして暴虐を極めた。ショスタコーヴィチの後ろ盾であり、相互に親睦も深かったトゥハチェフスキー元帥は、反スターリンの「陰謀」に関わったとして1937年、銃殺される。この「陰謀」に関係したかどで逮捕された政治将校は980人に及んだ。末端にいたるは数えられるべくもない。また文化人も、それこそ箸が転んだ拍子に次々殺害される。大作家ゴーリキー、詩人ニコライ・エジョフ、作家イサーク・バーベリ……党理論家としても名高いブハーリンも例外ではなく、恐らく濡れ衣を着せられて1938年3月15日、銃殺された。先の芸術家メイエルホリドも1938年に逮捕、40年に銃殺されている。同年、有名な党活動家レフ・トロツキーがメキシコで頭を砕かれて殺された。

 ショスタコーヴィチ一家の人間も、無論安全地帯ではありえない。身近な人、親類縁者の人々が、次々逮捕されていった(※注釈4)
 イデオロギー追従の曲を作ることが、しかも緊急に作ることが要請されていた。彼と彼の家族の生活を守るために、ショスタコーヴィチは交響曲を書いた。一気呵成に書いた。これが、彼の作品中最もポピュラーな交響曲である第5番交響曲である。この曲は1937年4月に着手され、たった三ヶ月で完成したとされる。
 この、余りにも評価が錯綜する交響曲作品は1937年11月21日に、ムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によって初演された。初演時、緩徐第三楽章では満場の聴衆のそこここからすすり泣きが洩れ、第四楽章に到るや皆が舞台に向かって起立してこの曲を聴いたという。
 
聴衆はみな立ち上がって、荒れ狂ったような喝采を――可哀相なミーチャ(ドミトリーの愛称)を陥れたすべての迫害に対するデモンストレーションのような喝采を送った。みな同じフレーズを繰り返した。「答えた、立派に答えた」。哀れなショスタコーヴィチが、下唇を噛みながら現れた。彼はいまにも泣き出しそうに思えた。
 なお、この第5番すなわち、ショスタコーヴィチにとって紛う方なき「運命交響曲」を初演したムラヴィンスキーは当時34歳、彼の交響曲を初演したのはこれが初めてであったが、これ以降、この気鋭の指揮者はショスタコーヴィチの様々な交響曲の初演を任され、その責に見事に答え続けることになる。

 第5番の成功により、最大の危機は去ったように思われた。が、それは最大の危機が去っただけのことで、スターリニズムは依然、ソ連を差配している。ショスタコーヴィチが、スターリンおよびスターリニズムとともに歩まざるを得ない苦難の道は、まだまだ続く。
 1938年はムソルグスキーの生誕百年にあたり、またスターリンの生誕60年にもあたる記念年である。この年の9月、ショスタコーヴィチの新しい交響曲の要旨が発表された。それによると、次の交響曲はレーニンの思い出に捧げられるものであり、合唱付きの巨大なものであるとされた。
 しかしながら実際に11月21日に発表された交響曲第6番は、その要旨とはにても似つかぬものだった。ラルゴの第1楽章から始まる3楽章形式のもので、楽章が進むに従って指示速度が次第に速くなるという特異なものである。そして実際にこの曲を目の当たりにした批評家たちは、「ショスタコーヴィチがまたぞろ形式主義に戻りつつある」という疑念を抱いた。
 批評家の疑念、首脳陣の困惑は、《マクベス夫人》のときと同様、ショスタコーヴィチに大きな問題をもたらす可能性があったが、そんな彼を救ったのは、自身が続く1940年に発表したピアノ五重奏曲の好評もさることながら、皮肉なことに突如侵攻してきたドイツであった。
 1941年、西から不意を襲われたソ連は、いままで没頭していた「密告と内紛と粛清」そっちのけで「大祖国戦争」にあたらざるをえなくなるのである。ショスタコーヴィチ、祖国、レニングラード、そしてスターリンの関係は、なおも変転していく。
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