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spatium artis ( 2014.12.22 updated )
■1490?-1576年
■ピエーヴェ・ディ・カドーレ出身
■ヴェネツィア派
 TIZIANO VECELLIO



■略歴

 芸術家にはいろんなタイプがある。
 同時代的に受け入れられず、後の世に大きく評価される芸術家(ゴッホ、ブルックナー)、同時代的には大変評価されるが、のちに忘れ去られるか、あるいは評価が縮小する芸術家(サリエリ、オッフェンバック、プフィッツナー)、そして、同時代的に評価され、なおかつ現代でも当代の巨頭と目される芸術家。
 同時代的に評価され、かつその名声を保ち続ける芸術家はまれである。音楽家であればベートーヴェンとワーグナー、そして画家では何をおいてもまずこのティツィアーノであろう。
 彼は1490頃、ピエーヴェ・ディ・カドーレの下級貴族の家に生まれたとされている。10歳の頃ヴェネツィアへ渡り、当初は巨匠ベッリーニの工房で修行をし、のちジョルジョーネと協働で作品を制作しはじめる。やがて詩的表現の時代的雄であったジョルジョーネが夭折し、ライバルでもあったセバスティアーノ・デル・ピオンボがローマに移住した時点で、ヴェネツィアにはティツィアーノに対抗できる画家がいなくなった。1511年、まだティツィアーノ20代前半である。
 1517年、老巨匠ベッリーニが亡くなった時点で、彼はヴェネツィア共和国公用画家となり、政府から聖職禄を受けるようになる。1530年代にはマントヴァ公爵フェデリコ・ゴンザーガが彼のパトロンとなり、この時代には彼の注文を受けて《兎の聖母》など複数の作品を制作している。
 1540年代末になって、彼は時の神聖ローマ皇帝カール五世の寵愛を受けるようになる。のち跡を継いだスペイン王フェリペ二世とも友好な関係を保ち、1576年鬼籍に入るまで、スペイン王国のために作品を量産する。
 彼ティツィアーノは、当初はジョルジョーネの詩的絵画様式に、のちには当時流行していたマニエリスムに触れ、前者は咀嚼内服して完全に自分のものとし、後者は影響を受けつつも超克した。晩年は他でもない自分自身のイデアに従う形で自らの様式を次々に変容させながら、なおかつ最後までティツィアーノ・ヴェチェッリオそのものであった。「素描のミケランジェロ」に対する「色彩のティツィアーノ」として、その魔術的印象主義は見るものに大きなインプレッションを与え続けている。

■作品


"Assunta" (1516-18)
 《聖母被昇天》



"Bacco e Arianna"(1520-22)
《バッカスとアリアドネ》



"Duque de Mantua"(1529)
 《マントヴァ公爵フェデリコ・ゴンザーガ》
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