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カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ管弦楽団の1958年録音。オススメというか、マタイといわずとも「世紀の名盤」で必ず登場してくるほどの逸品。踏みしめるようなテンポで展開される真摯な音楽は何物にも代え難い。オリジナル楽器派が台頭した頃「このリヒター盤の価値も下がるのではないか」的評論がそこここにあったが、豈図らんや21世紀に至るも当該リヒター盤はファンを増やし続けている。真物は時代が変わっても、人の心を打ち続けるということだ。福音史家ヘフリガー、バリトンのフィッシャー=ディースカウも大変いい。
なお、2012年に最新リマスタリングを施した Profil 盤も最近出た。音質は上記 Original と好みが分かれるようだ。

【参考】Profil リマスタリング版



稀代のチェンバリストでもあるグスタフ・レオンハルトの指揮、ラ・プティット・バンド演奏の1989年録音盤。私の愛聴盤でもある。オリジナル楽器派ではあるが、軽い響きでピンピン弾き飛ばすのではなく、ここにあるのはオリジナル楽器を用いたペザンテな響き、荘重な響きである。正しくレオンハルトのチェンバロ演奏を彷彿とさせる。また特徴としては、アルト合唱含め全てが男声であることで、ライプツィヒの教会で女性が回廊に上がることができず、男声のみで演奏した当時を再現している。


ヘレヴェッヘ指揮コレギウム・ヴォカーレ演奏の旧盤。1984年の録音である。ヘレヴェッヘといえばナイフ・エッヂのような鋭さを見せる演奏がまず思い浮かぶが、この録音はブリュージュの残響豊かな教会で演奏されており、そのヘレヴェッヘ特有のギザギザ感が和らいでいる。いつもながら知性あふれるアプローチだが、録音環境故の抒情性も仄見え、結果的に静謐な雰囲気を十全に纏っている。


クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏。1960年の演奏。福音史家はピーター・ピアーズ。イエスをフィッシャー=ディースカウ、ピラトの妻ソプラノアリアはシュヴァルツコップ。コントラルトはクリスタ・ルートヴィヒ。ペテロはヴァルター・ベリー。テノールはニコライ・ゲッダ。つまり当時飛ぶ鳥を落とす勢いのレッグPとEMIが当代の大歌手を集めて録音した豪華版マタイ。しかし無論クレンペラーの指揮であってみれば、パチンコ屋の新台入れ替え総花的演奏になったりする筈もなく、ぎっちりと詰まった音響で踏みしめるようなマタイを演奏する。ここにはクリストフォルスの巨大さ、もしくはアトラスの巨大さがある。かつ、クレンペラー特有の淡々とした、真鍮のような味わい。巨大でありながら、また豪華でありながら実に粛然としたマタイである。大変好きである。なお、以下の廉価版宗教曲集にも同じマタイが収められている。この曲集は天下の名演《ミサ・ソレムニス》も含まれておりお得感をいや増す。




ニコラウス・アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンの2001年録音盤。アーノンクールはどれもこれも狙いすぎか何もしなさすぎで大変難しい指揮者だが、オリジナル楽器派の明敏な音を聴きたいときはよくこれを取り出す。もっといえばマタイを最初にオリジナルで録音したのは1970年のアーノンクールで、オリジナル楽器派に対する印象の一部ないし大部を彼が形成しているといえないでもない。盤はスルバランの絵が表紙でもあり、また洋書美術書のような見開きカラー一体型ブックレットで高級感もあり、かつ3枚目がエンハンスドであり、PCでバッハの自筆譜が見られるようになってもおり、なかなかお得感がある盤である。なお、2001年発売後しばらく品切れだったが、近日再版されるようだ。そのリンクを添付している。
 ▽ Johann Sebastian Bach
Matthäus Passion BWV244
  マタイ受難曲 BWV244



■作曲 1727年、最終稿は1736頃
■初演 1727.4.11 トーマス教会
■台本 マタイ伝福音書第26章および第27章
      およびピカンダー作自由詞による
■言語 ドイツ語

《楽器編成》
Soprano Alto Tenor Bass
Chor Sop.A Chor Alt.A Chor Ten.A Chor Ba.A RipienoSop.
Chor Sop.B Chor Alt.B Chor Ten.B Chor Ba.B
BlockFl. 2 Fl. 2 Oboe 2
1st Violin 2nd Violin Viola Viola da Ga. Cello
Organ 2



■概要

 我々は既に、ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》も、ベルリオーズの《レクイエム》も、ブルックナーの交響曲第8番も、ブゾーニのピアノ協奏曲も、ワーグナーの《ニーベルングの指環》も知っている。つまり、いわゆる「巨大な曲」なるものの巨大さをよく、知っている。
 知っていて尚、それらの曲よりも百年近く、もしくはゆうに百年以上も前に作曲されたこのバッハの《マタイ受難曲》の巨大さを、我々は畏れる。そこにあるのは質量をもてる巨大さ、物理学的にいえば力積の巨大さである。しかもそれはひとを弾き飛ばす類の力積ではなく、我々の心に衝突し、かつ吸引し、なにか得体のしれぬ巨きな球のなかに、哀しみ溢れる安定的な秩序の中に取り込まんとするものである。この曲を構成しているものは無論ひとつの強い意思力であるが、他の「巨大な曲」と違うのはその個の意思力が完全に昇華されているところにある。
 巨大だが、得体のしれないもの。これは、宗教哲学者ルドルフ・オットーであれば「ヌミノーゼ」というであろう。
 音楽におけるヌミノーゼ。それがバッハの《マタイ受難曲》である。

 1723年5月、バッハはライプツィヒのトーマス・カントールに就任する。ドイツ語でいうカントール Kantor とは、ルター派教会の音楽監督の謂である。これは、ライプツィヒ市中の教会音楽作曲および演奏に全面的に関与するとともに、市の音楽教育および音楽活動にも責のあるものであって、ライプツィヒ自体の音楽総監というに近い。
 当然カントールは多忙であり、ほとんどの祝日におけるカンタータの作曲および演奏に従事するわけだが、冬にある待降節と、春にある復活祭の頃にはそれぞれ、演奏が休みになり、自由な活動が可能になる。いっぽう、復活祭前の聖金曜日には、ニコライ教会とトーマス教会のいずれかの午後礼拝にて、バッハはオーケストラ伴奏付きのオラトリオ風受難曲を演奏することを義務付けられていた。これらが、バッハがこの長大な受難曲を作曲することができた理由であり、作曲した動機であるといわれる(※註1)

 また、この受難曲の歌詞はその多くをマタイ第26, 27章から得ているが、同時にルター派教会の「コラール詞」、および「自由詞」からも構成されている。詞章をすべて聖書から引用したシュッツの頃と違い、バッハの作曲当時は自由詞により構成された受難曲もすでに多く作られていた(たとえば1716年に作曲されたヘンデルの《ブロッケス受難曲》は自由詞のみで構成されている)。伝統的な聖書詞のみではなく、叙情的で日々の信仰に直結するコラール、そして劇的な表現が可能な自由詞を見事なバランスで構成的に導入することにより、この受難曲は非キリスト者に対しても強烈な求心力をもつ作品になり来っている。


 さて、バッハの死後、この長大な――カット無しで3時間余りを要する――名曲のみならず、ヨハン・セバスティアン・バッハの名前自体、北の方で難解な作品を量産したバロック的ではないルター派の作曲家、という程度の認識で埃を被ったままうっちゃられていた。そのバッハの偉大さをロマン主義全盛の時代に世に知らしめたのは、やはり敬虔なルター派の作曲家にして指揮者、若き頃のフェリックス・メンデルスゾーンである。
 1829年3月11日、メンデルスゾーンはかつてより尊敬の念やまなかった大バッハのこの《マタイ受難曲》を復活蘇演する。カットを行い、楽器は現行ロマン派のものを流用するなど編曲版の演奏であり、かつその蘇演の評判は必ずしも芳しいものではなかったが、それはただ当時の聴衆がバッハ流の音響に慣れていなかったというだけであり、この蘇演をきっかけに全ヨーロッパでバッハの再評価が始まった。
 今やヨハン・セバスティアン・バッハの名は「楽聖」のなかでもまず第一に位置づけられるほどのものとなった。そしてその始まりはフェリックス・メンデルスゾーンであり、この大曲《マタイ受難曲》である。

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※註1 『作曲家別名曲解説ライブラリー バッハ』(音楽之友社)より、東川清一解説 p.340-。



■内容
※なお、各種CDにおいても、曲番の表記は旧全集版で表記されているもの、新全集版で統一されているものなどまちまちである。括弧がない番号は新全集版の曲番、丸括弧の番号は旧全集の曲番である。

第一部

「プロローグ」
第1(1)曲 合唱 ホ短調 8分の12拍子。 A. 「来い、娘たちよ、来て共に嘆くべし。見よ。」  B. 「誰を?」  A. 「花婿を見よ。」  B. 「どのような花婿を?」  A. 「まるで子羊のような花婿を見よ。見よ。」  B. 「何を?」  A. 「その忍耐を。見よ。」  B. 「何処を?」  A. 「我々の重い罪を。愛と恩寵の為に自ら十字架を背負われるかの人を。」 合唱4部*2 に加え、リピエーノソプラノ合唱を加えた全10部の合唱にて展開される第1曲。イエスの重い足取りを表現するかのようなオスティナート風の低弦。冒頭、ソプラノ合唱にて歌われるシオンの嘆き。十字架を背負い、よろめきながら歩くイエスと、悲痛極まる表情でそれを見守るキリスト者。場面描写のみではなく、群衆の心理描写もまた明瞭で劇的である。
第2(2)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章1〜2節) 福音史家が語り手。その後にイエスが自身の受難を弟子たちに予言する。ここでイエスの言葉は弦の長く伸ばされた和音の上にのせられる形で語られる。この和音はつねにイエスの発言に寄り添い、後光の役割を果たす。
第3(3)曲 コラール ロ短調 4分の4拍子。「最愛のイエスよ、どんな罪を犯してそのような厳しい判決を受けたのですか」。弟子たちの素朴な疑問が簡素なコラール旋律のなかに発せられる。
「策略」「ベタニアの塗油」
第4a-b, c-e(4〜8)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第26章3〜13節) 祭司長らの、イエスを捕らえる相談。この部分は合唱の応酬となり、実質八部合唱となる。ベタニアでイエスに香油を塗る女を非難した弟子たちは、イエスの言葉で自分たちの過ちを知る。
第5(9)曲 レチタティーヴォ ロ短調 4分の4拍子。「愛する救い主よ、あなたの弟子が愚かにも、この信仰篤い女が香油をもってあなたの身体をその埋葬に備えようとするのを咎めようとも、どうかお許し下さい。私の目から溢れ出る涙の流れの一滴をあなたの頭に降り注ぐことを」。
第6(10)曲 イエスの体を葬る準備のために香油を注ぐ女。その涙は香水となってイエスの首へと注がれる。女性の乱れる心と涙はダ・カーポのアリアにて切々と歌い上げるアルトの声とフルートの切分音で描写される。
「ユダ」
第7(11)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章14〜16節)
第8(12)曲 アリア ロ短調 4分の4拍子。 「血に塗れるがいい、愛する心よ。あなたにそだてられ、あなたの乳を吸った子供がその養育者を殺害しようとするとは、その子が蛇になったのです」。ユダが銀貨30枚でイエスを売る場面。福音史家がそれを語る。弟子に裏切られるイエスを嘆くソプラノ。これらはダ・カーポのアリアで、フルートは涙の音型を奏し続ける。
第9a-e(13〜15)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第26章第17〜22節)〈キリストが裏切りを予言する〉 種入れぬパンの祭りの日。弟子は食事の準備をする。イエスはこの中に裏切り者が居る、と述べる。不安で恐慌を来した弟子たちは4部合唱で「わたしでは」「わたしでは」と叫ぶ。
第10(16)曲 コラール 変イ長調 4分の4拍子。「それは私です。地獄で手足を縛られて罰せられるべきなのはこの私です」。イエスの受難=人類の罪の背負い、と解釈されるコラール。旋律は16世紀フランドル学派の作曲家ハインリヒ・イザークの有名な《インスブルックよ、さようならInsbruck ich muss dich lassen》による。
第11(17)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章第23〜29節)〈最後の晩餐〉 ユダが自身の言葉によって裏切りを認めることになる起伏に満ちた一節。イエスがパンと葡萄酒を弟子に分け与える。イエスはアリオーソ風の旋律的な動きで歌う。
第12(18)曲 レチタティーヴォ ホ短調 4分の4拍子。「私の心が涙に暮れて、イエスが私達のもとを去って行かれるのを悲しむとはいえ、わたしはイエスの契約を嬉しく思う」。
第13(19)曲 アリア ト長調 8分の6拍子。「私はこの心をあなたに捧げます。此処に御身を沈めてください。私はこの身をあなたのなかに沈めます」。2本のオーボエ・ダモーレの旋律に伴われ、イエスとの別れと彼によって遺された言葉を思い、イエスをよりどころとする決心を、シオンが歌う。
「オリーブ(棕櫚)山」
第14(20)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章第30〜32節)〈オリーブ山に向かって〉 棕櫚山に赴き、イエスは弟子たちが今夜自分に躓き、皆が自分から逃げること、自分は死んで後、皆に先立ちガリラヤに行くことを預言する。弟子たちがあわてて逃げる様子を弦楽器が描写する。
第15(21)曲 コラール ホ長調 4分の4拍子。「私を認めて下さい、私の護り人よ。私の牧者よ、私を引き取って下さい」。第17、第44、第54、第62曲と同じコラール詞の第5節。繰り返し現れるこの旋律は、全体を貫く。
第16(22)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章第33〜35節)〈ペテロの断言〉 「ペテロがイエスを知らぬと言うだろう」とイエスは預言するが、ペテロはこれを否定する。イエスの後光のみが弦楽器で奏されている。
第17(23)曲 コラール 変ホ長調 4分の4拍子。「私はここであなたと一緒に居ます。侮らないで下さい。あなたの心があなたを離れることがあっても、私はあなたから離れません」。第15曲と同じ旋律。イエスに忠実であり続けるとの主張を繰り返すコラール。
第18(24)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章第36〜38節)〈苦悶〉 ゲッセマネにヤコブとヨハネを伴い、祈るイエス。人間的なイエスの心情が弦楽器の動きに現れる。
第19(25)曲 レチタティーヴォ ヘ短調 4分の4拍子。テノール独唱の間にコラールが挿入される。自分たちの罪を一身に引き受けたイエスの苦悩を和らげたい信徒たちの願い、震え、戦きは通奏低音楽器のトレモロに、嘆きと諦めはブロックフレーテとオーボエ・ダ・カッチャの音型で描写される。
第20(26)曲 アリア アンダンテ ハ短調 4分の4拍子。 テノール「私はイエスと共に目覚めている」 合唱「そうすれば我々の罪が眠り込むのだ」 テノール「イエスの魂の苦しみが私の死を償い、イエスの哀しみが私を歓びで満たす。だからイエスの尊い苦難は我々にとって、酷く苦く、かつ酷く甘くなくてはならないのだ」。最も有名なテノール・アリア。装飾が非常に華麗である。オーボエ・ソロが独奏に先行する。
第21(27)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章39節)〈キリストの祈り〉 父なる神に自分の手より杯をとることを願うイエス。弦の動きは穏やかな心情をあらわす。
第22(28)曲 レチタティーヴォ ニ短調 4分の4拍子。「救い主は慈父の前でひれ伏し、それにより我と全ての者をその堕落から再度神の恩恵まで引き上げる。主はいつでも、この世の罪が注ぎ込まれていて、悪臭を放っている杯、死の苦しみの杯を呑む覚悟でいられる、それが愛する神の御心であるからである。」
第23(29)曲 アリア ト短調 8分の3拍子。「我はすすんで十字架と杯を受け入れたい。なぜなら主が呑まれた後で呑むのだから、ミルクと蜜が流れ出る主の口が一度杯に触れたならば杯の底まで、苦難の厳しい恥辱まで甘くなっているからである。」
第24(30)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章40〜42節)
第25(31)曲 コラール ニ長調 4分の4拍子。「神の御心は必ず成就しますように。神の御心こそが最上のものなのだから。」
第26(32)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章43〜50節)
第27a(33)曲 アンダンテ ホ短調 4分の4拍子。二重唱で「今や私のイエスは捕らえられた」と歌われる。合唱は「イエスを放せ、やめろ、縛るな」と歌う。二重唱「月と光は、我のイエスが捕らえられたため、哀しみの余り沈んでしまった」、合唱「イエスを放せ、やめろ、縛るな」、二重唱「イエスは引っ立てられ縛り上げられる」と歌われる。フルートとオーボエは哀しみの主題を奏する。弦はリズムを搖動させ、囚われたイエスを表現する。
第27b(33)曲 合唱 ヴィヴァーチェ ホ短調 8分の3拍子。「稲妻よ、雷鳴よ、雲間に消え去ったか。おお地獄よ、火を開け、その不実な裏切り者、残忍な血を粉砕せよ、滅ぼせ、喰いつくせ、すぐに怒り狂って打ち砕け」。管弦楽は細かい上昇音型、「すすり泣きの動機」を絶えず奏する。
第28(34)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章51〜56節)〈弟子たちはイエスを見捨てる〉
第29(35)曲 コラール ホ長調 4分の4拍子。「おお人よ、汝の罪の大きさを嘆け、キリストはその罪のために父の膝元を離れて、この地に来られたのだ」。

第二部

「プロローグ」
第30(36)曲 アリア ロ短調 8分の3拍子。アルト「ああ、私のイエスは連れて行かれた」。合唱「あなたの友は何処へ行ったのか、最も美しい者よ」。アルト「イエスを見ることはできるだろうか」。合唱「あなたの友は何処へ行かれたのか」。アルト「ああ、虎の手にかかった私の子羊よ、ああ、私のイエスは何処」。合唱「私達もあなたと共に探します」。アルト「魂が心配になって私に尋ねたら、何と答えればよいのだろうか。ああ、私のイエスは何処」。イエスを失い動揺するシオンと信徒の描写である。
「大祭司カヤパの前のイエス」
第31(37)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章57〜60節)
第32(38)曲 コラール 変ロ長調 4分の4拍子。「世は私を欺き、嘘謂れのない作り事で多くの網、密かな罠をかけた」。
第33(39)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章60〜63節)〈偽証〉
第34(40)曲 レチタティーヴォ ニ短調 4分の4拍子。「私のイエスは、謂れのない虚偽に対して黙っておられるが、それはその慈悲深い御心のため、我々に代わって責苦に遭うことを望んでおられること、また我々が同じ苦難にあっても、イエスに倣い迫害の中にも沈黙すべきことを示す為である」。
第35(41)曲 アリア イ短調 4分の4拍子。「偽りの舌が私を誘うとも忍耐、私が自分の罪にも拘らず、侮蔑を耐え忍ぶならば、神は私の無実に報い給うであろう」。
第36a-d(42,43)曲 レチタティーヴォ (マタイ第26章63〜68節)〈キリストが打たれる〉
第37(44)曲 コラール ヘ長調 4分の4拍子。「あなたをそんなにも鞭打ち、そんなにも酷い目に遭わせたのは誰ですか」。
「ペテロの否認」
第38a-c(45,46)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第26章69〜75節)〈ペテロ、キリストを否認する〉
第39(47)曲 アリア ロ短調 8分の12拍子。「神よ、私のこの涙にかけて憐れみ給え、見て下さい」。アルトソロが歌うなか、ヴァイオリン・ソロと通奏低音が粛々とペテロの心象を表現する。通奏低音はピッツィカートで奏され、ペテロの悔恨の涙のようである。
第40(48)曲 コラール イ長調 4分の4拍子。「私はあなたから離れましたが、再び帰ってきました」。
「ユダの最期」
第41a-c(49,50)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第27章1〜6節)〈ユダの最期〉 先の「ペテロの否認」と対称をなす。音楽的にも、先のペテロ部分のヴァイオリン・ソロは第1グループのヴァイオリン・ソロに振られているのに対し、この部分のヴァイオリン・ソロは第2グループのそれに振られている。
第42(51)曲 アリア ト長調 4分の4拍子。「私のイエスを返せ、ほれ、その見捨てられた若者が汝らの足元に金を、人殺しの礼金を投げつけているではないか」。バスソロが歌うこの部分は、先のアルトソロ第39(47)曲と対称をなしている。
「ピラトの前のイエス」
第43(52)曲 レチタティーヴォ (マタイ第27章7〜14節)〈キリスト、ピラトに審問される〉
第44(53)曲 コラール ロ短調 4分の4拍子。「あなたの進む道とあなたの心の悩みを、天を統べる方の最も誠実な保護に委ねよ」。
第45a-b(54)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第27章15〜22節)〈ピラト、バラバを放免〉 群衆の合唱にあらわれる減七和音は、のちのヴェルディなども破滅的運命を描くのに用いている。
第46(55)曲 コラール 「これはなんと不思議な罰だろうか、よき牧者が羊の代わりに苦難を受け、義人である主人が自分の下僕の代わりに負債を支払うとは」。
第47(56)曲 レチタティーヴォ (マタイ第27章23節)〈あの人はどんな悪いことをしたのか〉
第48(57)曲 レチタティーヴォ ホ短調 4分の4拍子。「その人は私達皆によいことをしました。盲人に視力を与え、跛の人は歩けるようにし、私達に御父の言葉を教え、悪魔を追い払い、悲しむ人を勇気づけ、罪人を受け入れ許しました。私のイエスはそれ以外の何でもありませんでした」。
第49(58)曲 アリア イ短調 4分の3拍子。「私の救い主は覚えがないのに、ただ愛ゆえに死に給うのである。それは、永遠の破滅と裁きの罰が私の心に残らないようにするためである」。通奏低音なし(バセットヒェン)でソプラノソロに歌われる。この響きの澄みやかさは、イエスの清浄性を示している。
第50a-e(59)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第27章23〜26節)〈イエスが鞭打たれる〉 第45曲後半の旋律の移調律。
第51(60)曲 レチタティーヴォ 4分の4拍子。「神よ、哀れみ下さい。ここに縛られているのは救い主。鞭打ち、殴打、この傷口。刑吏たちよ、君らは心の痛みを覚えないのか。その苦悩の表情に心を動かされないのか」。
第52(61)曲 アリア ト短調 4分の3拍子。「私の頬を流れる涙になんの力もないのならば、私の心を奪ってほしい」。
第53a-c(62)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第27章27〜30節)〈イエスが笑いものとなる〉
第54(63)曲 コラール ニ短調 4分の4拍子。「ああ血と傷、苦痛と嘲弄でいっぱいの頭、嘲りのために茨の冠を縛り付けられた頭、ああ、かつては最高の栄光と誉れで美しく飾られていたのに、今は酷く罵られている頭」。第15曲と同じコラールから、第1節と第2節である。
「ゴルゴダ」
第55(64)曲 レチタティーヴォ (マタイ第27章31〜32節)
第56(65)曲 レチタティーヴォ ヘ長調 4分の4拍子。「確かに、我々の血と肉が十字架に付けられざるを得ないのは望ましいことである。我々の魂にとってよい十字架ほど厳しいのだ」。
第57(66)曲 アリア ニ短調 4分の4拍子。「私は言いたい。来たれ、甘き十字架よ。イエスよ、それをこちらによこしてください。その苦しみが私の手にあるほど厳しい時には、私が自分でそれに耐えられるように手を貸して下さい、と」。伴奏するヴィオラ・ダ・ガンバの旋律は《無伴奏ヴァイオリンのパルティータ》を彷彿とさせる。難曲である。
第58a-e(67,68)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第27章33〜44節)〈磔刑〉
第59(69)曲 レチタティーヴォ 変イ長調 4分の4拍子。「ああゴルゴダ、呪われたゴルゴダ。ここで栄光のあなたが、この世の祝福にして救いが、辱めを受けて死ななければならず、災禍をもたらす者として十字架にかけられるとは。天と地の創造主が、大地と空気を奪われ、罪なき人が有罪として死ななければならないとは。それが私の魂をひどく悲しませる。ああゴルゴダ、呪われたゴルゴダ」。
第60(70)曲 アリア 変ホ長調 4分の4拍子。アルト「見よ、イエスが私達をいだくために手を伸ばされた。来なさい」 合唱「何処へ?」 アルト「イエスの腕の中へ。救いを求め、憐れみを受けなさい。求めなさい」 合唱「何処で?」 アルト「イエスの腕の中で。ここで生き死に、安らぎなさい。留まりなさい」 合唱「どこに?」 アルト「イエスの腕の中に」。オーボエ・ダ・カッチャに先導されてシオン(アルト)に歌い出される。状況は何ら変わっていない。変わったのは泣き濡れていたシオンの心である。イエスが死ぬことを遂に受け入れたシオンは、信者たちにイエスといだき合い、同一化することを求める。
「3時」
第61a-e(71)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第27章45〜50節)〈キリストの死〉 キリストの絶唱「神よ、何故我を見捨て給うたか」が聴かれる。
第62(72)曲 コラール イ短調 4分の4拍子。「私が死ぬ時、私から離れないで下さい。私が死の苦しみを受ける時、姿を現して下さい」。第15曲と同じコラール。第9節。
第63a-c(73)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第27章51〜58節)〈誠にこの人は神であった〉 C音のオクターヴ下降は、キリストの陰府下りを示している。
第64(74)曲 レチタティーヴォ ト短調 4分の4拍子。「夕方も涼しくなったころ、アダムの堕落が明らかになった。夕べには救い主がその堕落を克服し給う。夕べに鳩が戻ってきて、オリーブの葉を一枚くわえてきた。おお美しい時、夕べの時よ。今や神と平和の契が結ばれたのだ。イエスがその十字架を全うしたからである。イエスの遺体は憩いにつき給う。愛する魂よ、頼むがいい、行ってイエスの遺体を引き取るがいい。その神聖で尊い記念を」。
第65(75)曲 アリア 変ロ長調 8分の12拍子。「我が心よ、自らを清めよ、私は自分でイエスを葬りたいのだ」。
「埋葬」
第66a-c(76)曲 レチタティーヴォと合唱 (マタイ第27章59〜66節)〈キリストの埋葬〉
第67(77)曲 レチタティーヴォ バス「今や主は眠りにつき給う」 合唱「私のイエスよ、おやすみなさい」 テノール「我々の罪が彼に追わせた苦難は終わった」 合唱「私のイエスよ、おやすみなさい」 アルト「おお、清められた遺体、私の罪があなたをこの苦難に陥れたことを、私が悔い悲しんでいる様を見て下さい」 合唱「私のイエスよ、おやすみなさい」 ソプラノ「あなたが私の魂の救済をかくも重視して下さった事に対し、あなたの受難に対し、生命のある限り感謝し続けます」 合唱「私のイエスよ、おやすみなさい」
第68(78)曲 合唱 ハ短調 4分の3拍子。「我々は涙に暮れて跪き、墓の中のあなたを呼びます。安らかに眠り給え。疲れ切った身体、安らかに憩い給え。あなたの墓石は怖気づく良心の快い褥、魂の憩いの場とします。かくてこの目はこの上なく満ち足りてまどろむのです」。



■付記
 「バッハとモーツァルトが居なければ、我々はワーグナーの存在を信じられなかっただろう」という、ワーグナーの創作力の巨大さを賞賛する言葉があるが、むしろわたしとしてはバッハのほうがより非現実的な怖さがある。ワーグナーはベートーヴェンの巨きな梯子に乗っているし、隣にいるヴェルディやらブルックナーやらと殴り合いながら支えあっている。ところがバッハはシュッツの踏み台みたいなところに乗っている風情はあるが、すごく大きなものが独りで立っている風情がある。夜中、森深い山の上にぽつんと立つ大鉄塔。バッハにはそんな畏ろしさがある。

 なお、depression 抑うつ状態に陥った際、音楽療法が効果があることもあるようだが、自分にとってはこの《マタイ受難曲》が劇的に効く。かくまでも巨大なものに抱かれて眠る感覚が、音楽受容以外の経験でありえようか。

(up: 2015.3.8)
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