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【人間】 身体: 知力: 武力: 指揮: 魅力: 政治: 短気: 信仰: 【音楽】 楽器: オルガン 旋律: 簡潔: 構成: 雄大: 革新: 時代: |
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メシアンには、二つの側面があるといっていいだろう。ひとつは、敬虔なキリスト者としての面であり、もうひとつは、自然賛美者としての面である。前者の、作曲における結実はたとえば、大作オペラ《アッシジの聖フランチェスコ》であり、後者におけるそれは《鳥のカタログ》或いは《峡谷から星たちへ》などであろう。勿論、これら自然への畏敬は、自然を形作った創造者としての神、に対する畏敬に直接的に契合しており、やはり彼の信仰心のなせるところというべきでは、ある。 メシアンは1908年、アヴィニョンで生まれた。彼はまるで自然に、7歳の頃に初めての作曲をしている。 第一次大戦が終わったころ、彼はフランスのコンセルヴァトワール(パリ音楽院)に入り、その頃から独自に、東洋の音楽ならびにリズムの研究をはじめる。1929年、最初の有名な作品である"Preludes"を完成させる。同時に、La Trinite聖トリニテ教会のオルガニストに就任、終生教会付オルガニストとして活躍する。 1936年から1940年まで彼はエコール・ノルマルの音楽学教授として活動するが、第二次世界大戦の開始とともに徴兵にとられ、やがてドイツ軍の捕虜となり、Goerlitzゲルリッツの収容所へ収監される。 そこでメシアンは3人のフランス人演奏家を知る。ヴァイオリン奏者、クラリネット奏者、そして「パスキエ・トリオ」のチェロ奏者として名高いエティエンヌ・パスキエである。空腹と酷寒のなか、メシアンは自分を含めた四人のための四重奏曲を完成させる。これなん、世に名高い《世の終わりのための四重奏曲》である。作品は1941年1月15日、収容所内にて捕虜を前に行われ、大成功をおさめた。 戦後、彼は結局1978年まで続くことになるエコール・ノルマルの教授として後進の指導にあたり、ピエール・ブーレーズやクセナキス、シュトックハウゼンをはじめとした高名な弟子を多数輩出する。盛んに外部との交流を行い、たとえば1949年のダルムシュタット音楽祭に参加、才気煥発たる若者たちにメシアン自身も刺激を受け、《音高と音価のモード》を作曲している。また黄金時代のアメリカをしばしば訪れ、1948年にはアメリカ・ボストン交響楽団のセルゲイ・クーゼヴィツキーの委嘱にて、彼の最も有名な管弦楽作品《トゥーランガリラ交響曲》を完成している。 メシアンの曲にしばしば登場する「鳥の音楽」だが、彼は1953年から本格的に鳥の声の記録を始めている。その活動は、ギリシア音楽やインド音楽のリズムを取り入れたピアノ独奏曲の大作《鳥のカタログ》へと結実した。 1970年の始め、彼はアメリカに帰り、ユタ州のランドスケープにイマジネーションを刺激される。そこで作曲されたのが《峡谷から星たちへ》である。 一方、「総てのものに届くことができ、しばしば神にさえも届くことのある」音楽を探求するなかで、彼は超大作オペラ《アッシジの聖フランチェスコ》を1982年に完成させる。これは演奏時間4時間、フルスコア2500ページにになんなんとする全3幕の野心的なオペラである。 1983年、ニューヨーク・フィルハーモニックのズビン・メータの委嘱を受け、彼は《彼方の閃光》の作曲にとりかかる。この作品は1991年に完成するが、メシアンがその、実際の音を聴くことはなかった。 メシアンは1992年、パリにて帰らぬ人となる。 |
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