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【狂言】 ◆随筆◆
《縄綯》論


  狂言の曲に「縄綯」というものがある。あらすじは狂言名曲案内 《縄綯》に書いたのでそれを参照してもらいたいところだが、一言でいえば「落語的狂言曲」というべきものだ。
 太郎冠者は数十分、延々と一人語りで悪口を述べる。

 最初見た時は、太郎冠者が繰り出す雑言に面食らう。だが他に面白い展開もなさそうだし、とりあえず悪口をいわれている太郎殿の様子を想像したりなんかして笑う。悪口雑言を笑う。表面的には悪口雑言を笑う狂言であるので、あまり後味がよくない。それで、心に引っ掛かりが出来る。悪口雑言を笑ったという引っ掛かり、それから、「何故これが時代の審判に残ったんだろう」という引っ掛かりである。

 違うのだ。
 おそらく「縄綯」の面白さは雑言なんかよりもっと奥深いところにある。
 だから、残ったのだ。

 悪口を言われる損な役回りである太郎殿にとって不幸なのは、太郎冠者とのつながりがエコノミカルなものでしか有り得ないところである。太郎冠者は、主によって博打に打ち込まれ、それでやってきている。当時としても恐らくイレギュラーなことで、ほんらい給付すべきは当然、金銭「鳥目」である。
 つまりバクチで得られたはずの金銭の代わりに来ている。ゆえに、その金銭分働いてもらおうとするのは当然で、用事をいいつける際に太郎殿が言う「使用人のただ居るというは悪しいものじゃ」という物言いは、太郎殿の吝嗇を表現しているというよりは、《どうしても働いてもらわねばならぬというわけではないが、金銭の代わりに来ているものゆえじっとしていてもらうのは対家内的に大変困る》、というエクスキューズなのではないだろうか。金銭が関わっている人材が家中でだらだらしているようでは、もし太郎殿がよくても家人が許すまい。太郎殿にとっては、太郎冠者を働かさなければどうにもならぬのである。

 いっぽうで太郎冠者は、郎党家人の関係を明示するかのように、主従関係に、人間的な関係を求めているのは明らかである。だからこそ、バクチに打ち込んだのはさておき、騙して遣わそうという主の考え方に殊の外立腹するのであり、また、主がそれを素直に謝罪し、頭を下げたらばスイッチが切り替わったかのように上機嫌になって甲斐甲斐しく働き始めるのである。
 彼が求めているのは、人間と人間との繋がりであり、血縁的、あるいは疑似血縁的な関係である。家の《中の》者、という関係である。

 主人は冒頭こう述べる。
 「金銀はおろか、太郎冠者までも打ち込んでしまったが、バクチに打ち込んで負けたので行ってくれと正直に述べたら行くまいから、彼を騙して遣わそうと思う」。
 しかしこれは物言いが真逆で、血縁的関係を願っている太郎冠者に正直に、頭を下げて、「身共、博打で負けた。太郎冠者、申し訳ないが行てくれ」と述べたら、怒るには怒っただろうが、間違いなく遣いに行くだろう。想像をたくましくすれば、太郎冠者は怒りを収め、《わたしなどに頭を下げてくれた主の家の者として》誇り高く遣いに行くのではあるまいか。
 また逆にいえば、このような太郎冠者を騙して遣わせば、人間的に裏切られたと感じるはずの太郎冠者はへそを曲げてあとで怒るに決まっている。
 主人はそれを分かり切ってだましたか、だましたら怒るとわからない程度に頭のネジがゆるいかのどちらかだが、わたしは前者であろうと考える。曲がはじまって早々におこなわれる、主と太郎冠者の問答からも、太郎冠者がこれまでもたびたび主に対して博打を止めろと諫言しているらしいのが知れる。
 主は、太郎冠者が再三止めろといっていた博打で、他でもない太郎冠者を打ち込んで負けてしまったということに負い目がある。だから正直に言えぬ。正直に言って、博打をまたやったことと太郎冠者を打ち込んだのと両方で怒られるよりも、だまして遣わしてだましたことについて怒られる方が《マシ》と判断したということだろう。

 松本新八郎という人が、狂言に登場する太郎冠者について、「狂言の面影」という論文のなかで次のように書いている。
当時の家内奴隷が、主人とともにたたかって独立農民にのしあがっていく主従の親愛感がある
(なお、当該論文に当たれなかった為、引用は戸井田道三『狂言』p.270から孫引き)

 それを前提とするならば、この「縄綯」という曲は、その「独立農民」となりかけた主従関係が、貨幣経済に巻き込まれるかたちで崩壊することをも暗示している。鳥目の代わりに、ということはいわば鳥目《として》太郎殿の屋敷に遣わされ、結局雇用者とケンカ別れして帰ってくる太郎冠者は、同時に金銭を媒介とした主従関係の不能性・不毛性を物語っているのではあるまいか。貨幣を媒介とした人間関係・主従関係に小さな声で「否」を述べているのではあるまいか。
 そんなふうにさえ思われるのである。

 わたしは「縄綯」を観劇する際、「太郎冠者はわれわれの映し身である」という、もはや言い古された言い回しが、有無を言わせぬ強度をともなって、この21世紀に現れるのを見るのである。


(written in 2008.1.21, 2015.2.3 updated.)
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