spatium artis ( 2009.5.27 updated )
ecce homo
  この人を見よ
1515
Oil on panel,
 160 x 120 cm
Museo del Prado,
Madrid

【部分図。クリックにて拡大】

■梗概

 「この人を見よ」。
 福音書のなかでも、とりわけ劇性の強い場面の一つである。
 キリストを、若者を扇動しユダヤの王を僭称したという罪によって捕縛したローマ総督ピラトは、処刑を見るべく集結したユダヤ人に対して呼びかける。この人を見よ、と。
「視よ、この人を汝らに引き出だす。これは何の罪あるをも我が見ぬことを汝らの知らんためなり。」此処にイエス茨の冠をかむり、紫色の上衣を着て出でたまえば、ピラト言う、「視よ、この人なり。」祭司長、下役どもイエスを視て叫び言う、「十字架に釘けよ、十字架に釘けよ。」ピラト言う、「汝らみずから取りて十字架に釘けよ、我は彼に罪あるを見ず。」ユダヤ人答う、「我らに律法あり、その律法によれば死にあたるべき者なり、彼はおのれを神の子となせり。」(ヨハネ福音書 12-5)
 この作品はマセイスの作品のなかで最も有名なものの一つであり、場面に流れる劇性、緊張感、果てしのない騒乱、そして人間の醜さを表現して余りある。ヒエロニムス・ボッスの「十字架を担うキリスト」に相似た、人間性(あるいは群衆性)に対する痛烈な皮肉が見て取れる。

右上に見られるのは、ローマ徽章であるところの鷲の紋章が入った旗。キリストをローマ軍が捕らえ、ユダヤ人が囃し立てる。

茨の冠に流血し、憔悴しきった神の子キリスト、そしてキリストの頸に縄を掛け勾引して悪態をつく群衆。この対比は一体何なのだろう。この静謐な残虐性は一体何なのだろう。

ここに流れるのは非・人間性ではない。むしろ恐ろしいほどの、自らの臓物を見せられるかのような、まごうかたなき「人間」性である。
唯一威厳を保つのはローマ総督ピラト。

その後ろにはやはりキリストのマントを引っ張って小馬鹿にする群衆の一人が見られる。

そもそもピラトが福音書においてヒールの役に徹して描かれていないのは、当時のキリスト教をとりまく環境によるもの、もっといえば当代の為政者に対し、殊更に攻撃にまわるわけにいかず、阿諛追従と独立自尊のギリギリのところを衝いた結果であるという見方もある。
いずれにせよ、福音書のピラトも、またここに見られるピラトも、ある程度「公正性をもつ権力者」として登場している。
キリスト教絵画において上方に描かれるものがもつ意味は、それぞれ軽からぬものがある。
この、皮肉と諷刺に満ちた作品においても、上空はきわめて静謐な空気が流れている。

左上に見られるのは聖母像だが、この聖母像は腕に抱く我が子を眺めつつ、明らかにその下にある、今まさに受難を受けつつあるキリストを見つめている。「慈愛の擬人化」であるという見方もあるが、これはやはり「聖家族」であるとわたしは考える。パルミジャニーノの「長い首をもつ聖母」のように、死しつつある我が子を眺めている聖母である。そう確信する。
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