Anton Bruckner (1824-1896)
アントン・ブルックナー



【人間】

身体:

知力:

武力:

指揮:

魅力:

政治:

短気:

信仰:


【音楽】

楽器: オルガン

旋律:

簡潔:

構成:

雄大:

革新:

時代:






penguinのclassical rough guide の2010年版。いわゆる西洋古典音楽系列と考えられる作曲家のほとんどが網羅されており、読み物としても、参照資料としても面白い。ディスクレビューも含まれている。何年かに1度改訂されるようなので、最新版購入をオススメする。


音楽之友社・作曲家・人と作品シリーズのブルックナー。割に当たり外れがあるこのシリーズだが、ブルックナーとマーラーとショスタコーヴィチは大変いい。人物編・作品編とも、ブルックナーを知るには必要十分な内容。


作家田代櫂のブルックナー評伝。結構分厚いが文章がいい上にやっぱりブルックナーの生涯は大変おもしろいので一気に読み通せる。


生前のブルックナーと関わりがあった著者のブルックナー評伝。厳密に言えば著者が子供時代、その父親とブルックナーが友人であったらしい。ディナーの魚を素手で2つにぶちわって食べている目の前のみすぼらしい老人があの高名な交響曲作家とはどうしても思えなかった、みたいな表現もあって大変おもしろい。作者のブルックナーその人への愛情が大変よく伝わってくる。


■謎

 ブルックナーというのは、ひとつの謎である。

 そして、割合に長命を保った作曲家であるにもかかわらず、その名を思い浮かべる時、ひとつの、惜しい思いがつねにある。不世出の天才としての彼ブルックナーの有限な時間を、もう少しどうにかうまく使えなかったのだろうか、という思いである。
 というのも、彼は自分の作品を、しかも普通の曲ではなく異様なスケールの長大な交響曲を、完成させては改訂し、また改訂しては作り、した。
 ブルックナーを語るには落とせない要素、尋常ならざる改訂癖、である。
 それは作品をよりよくしようという一種の向上心といえばそうだが、逆にいえば彼は、自分の作品に確たる自信をもてないようなところが、常にある。彼の作品に触れたものにとってはまことに信じがたいことだが、その交響曲はまるでゴシックの大伽藍のように地に足のついた、聞く者を例外なく圧倒するような剛直なものであるのにもかかわらず、彼自身はまるで風に吹かれる空っぽの紙袋のように、異様にふらふらするのである。たとえばベートーヴェンが、彼の曲が難しすぎて演奏困難だと訴えるヴァイオリニストに対し「俺の魂が語りかけているときに、オマエの哀れなヴァイオリンのことなど構っていられるか!」と一喝したのとは間逆である。初演の観客の反応が悪ければ改訂、弟子にあれこれ言われては改訂、誰も何も言っていなくてもすすんで改訂、とにかく改訂する。しかも残念なのは、改訂したことによってその曲がよくなったとは必ずしも言いがたく、今となっては多くのブルックナーを得意とする演奏家は "Original Fassung" つまり原典版、改訂する前の楽譜で演奏するのである。
 あの改訂の時間はなんだったのだといわざるをえない。
 彼にもしまったく改訂癖がなければ――――
 交響曲が第9番未完でプンクトを打つ、なんていうことはなく、10番11番と書き続けることができただろう。ショスタコーヴィチと同様、14番で《テ・デウム》を髣髴とさせる巨大なレクイエムめいたものを書き、15番で今までの曲の総決算、なんていうことをやったかもしれない。それは冗談としても、彼の完成品である最後の交響曲・第8番が完成したのが1887年。大体2年に1曲のペースで交響曲を完成しているブルックナーがそのまま作曲だけを行っていれば、89年に第9番、91年に第10番、93年に第11番、95年に第12番……

 いや、しかしこれは繰言であろう。
 改訂を繰り返す神経症的な要素、それなくしては、彼の作品は存在しえないのだろう。

 ああ、残念である。
 未完に終わった彼の交響曲第9番は、現代の碩学による4楽章補筆版がいろいろ出ているけれども、それらを聴いてみてがっかりすることごとに、残念な思いを深くせざるを得ない。

■ブルックナーとオーストリアと

 オーストリアの作曲家といえば、まずシューベルトである。
 ブルックナー14歳、ザンクト・フローリアン教会の聖歌隊に参加して賛美歌などを歌っていた1838年、死後そのままになっていたシューベルトの書斎を訪れたローベルト・シューマンが、埃にうもれている未発表の交響曲を見つける。これなん、のちにシューベルト作品番号D944を与えられた大曲・グレイト交響曲である。
 シューベルトのグレイトを聴いていると、ブルックナーの交響曲とのある共通性を感じられる。執拗に繰り返される動機、引き伸ばされ、または縮められてちりばめられる同一音型、非常に息の長い旋律。主題同士が戦いながら展開していくベートーヴェンとも、ただ天衣無縫に旋律を開放するモーツァルトとも、雑然ともいうべき音型のおもちゃ箱のようなマーラーとも違う、シューベルトとブルックナーに共通するようなものが感じられる。
 
 急いで付け加えられるべきは、このグレイト「ハ長調」交響曲は、のちに作られた、曲冒頭から類似しているシューマンの第1交響曲「春」はいうに及ばず、この後に続くロマン派交響曲の多くに影響を与えている。しかし真の意味でグレイトの直系を感じられるのは、やはりブルックナーの交響曲だといえるだろう。そもそも1825年に完成をみたとされるグレイト交響曲は、その前年1824年に生まれた交響楽の大金字塔・ベートーヴェンの合唱付交響曲第9番―――後世の交響曲作家をその偉大さで束縛し続けた作品――に対して「即座にシューベルトから投げ返された見事な回答」(田村和紀夫)である。そして、ピアニッシモの弦トレモロで始まる、いわゆる「ブルックナー開始」が合唱付交響曲の冒頭に範をとっていることにも見られるように、ブルックナーの交響曲は、合唱交響曲を父とし、グレイト交響曲を母として生み出されたものといえなくもない。

■略歴

 1824年9月4日、オーストリアの小村アンスフェルデンに生まれる。父はこのアンスフェルデンの学校長兼オルガニスト。カソリックである。1835年、ヨハン・バプティスト・ヴァイスというオルガニストに預けられ、本格的な音楽教育を初めて受ける。翌年、父親が死去。同年、のちにブルックナーの心の拠り所となるリンツの聖フローリアン修道院の聖歌隊に入る。1840年、リンツで補助教員免許を取得。ブルックナーとしては、父と同じように教師になりたかったようだ。1845年、聖フローリアン修道院に欠員ができ、古巣に戻ることとなる。依然として補助教員ではあるが、バッハの対位法を研究しながら、私的にオルガンを弾く毎日が続く。この時点ではちょっと変わった音楽好きの補助教員にすぎない。
 ところが1848年、聖フローリアンの正オルガニスト、カッティンガーが転勤となり、空席となった聖フローリアンのオルガニストがブルックナーに決まる。最初は臨時オルガニストだったが、やがて1855年12月、専任オルガニストに任命された。いわば彼は初めて、ここでプロの音楽家となったわけである。同じく55年、ウィーンの音楽理論家、ジモン・ゼヒターに弟子入りを志願。彼の《荘厳ミサ曲》を見たゼヒターはその才能を見抜き、以降6年間、ブルックナーは彼の下で厳しい研鑽を積む。毎日何時間も課題をこなし、そして次々と理論を吸収していった。
 ゼヒター門下の修行が終わった翌年である62年、ブルックナーはワーグナーの《タンホイザー》に触れ、衝撃を受ける。斬新な和音。大胆な管弦楽法。スイッチが入ったブルックナーは、管弦楽曲の作曲に没頭し始める。1863年1月《序曲ト短調》、5月《交響曲ト短調》、翌年5月《交響曲ニ短調》(のちに「交響曲第0番」という番号が、作曲者本人によって与えられる)、1866年、交響曲第1番、それぞれを作曲・完成。1867年、先の師・ゼヒター死去。ブルックナーの目はウィーンに向く。ウィーンでいろいろ就職活動を行うが、田舎の馬の骨が出て行っても音楽の都では相手にされない。その時、ウィーンの友人ヨハン・ヘルベックが「ゼヒターの後任でウィーン音楽院の教授にならんか」という渡りに船の誘いをもってくる。ブルックナーは迷いに迷うが、友人連に背中を押され、ついに決断する。ウィーン時代の始まりである。
 ウィーンに移ってすぐのブルックナーは、まずオルガニストとして評価される。1871年、ロンドン・アルバート・ホール大オルガン完成の試演会にウィーン代表として派遣され、即興演奏を行い大評判をとる。ブルックナーのオルガン演奏は、ただある楽譜をトレースするだけの単なる再現作業ではなくして、ある主題から自由に即興的展開を見せる即興演奏が多かったようである。故に、賞賛された彼の「オルガン作品」というのは余り残っていない。
 オルガニスト、および対位法理論家としてはすでにウィーン第一級であったブルックナーだが、その交響曲はなかなか認められなかった。交響曲第2番、1872年完成もウィーン・フィルに「演奏不能」といわれて客受け以前の問題、交響曲第3番、1873年12月完成もやはりウィーン・フィルに演奏拒否される。1874年11月、交響曲第4番完成。しかしこれの初演もすぐには行われず(結局初演は1881年)。負けじと1876年5月、彼にとって大傑作の一つである交響曲第5番完成。やはり演奏機会に恵まれず(結局オーケストラ初演は1894年)。1881年に交響曲第6番完成。この曲は1883年初演されるが、第2楽章と第3楽章のみの演奏というワケの分からん形での初演であった(全曲初演は1899年)。しかし不遇をかこちつづけたブルックナーも、遂に彼が愛する神に祝福を受けることになる。1883年交響曲第7番完成。翌年の1884年12月、ニキシュによりライプツィヒにて初演。大成功をおさめる。聴衆も「ブルックナーって、割にいい曲書くじゃん?」となりはじめ、以前の曲なども初演再演が繰り返されるようになる。繰り返すが1884年。ブルックナーが亡くなる12年前である。1887年、大伽藍・交響曲第8番完成。しかし指揮者ヘルマン・レヴィに改訂をすすめられる。意見を友人連に聞いたら残念ながら皆、改訂をすすめてくる。自信があったブルックナーはショックを受けて神経衰弱みたいになってしまった。しかし苦しみをおしてどうにか改訂、同時に第9番のスケッチと、第1および第3交響曲の改訂を始める。第8番については、1890年に一応の改訂が完了した。1892年、ウィーンで初演。既にブルックナーの交響曲に慣れつつあった聴衆は、好意的反応を返した。楽章ごとに拍手が巻き起こったという。しかしワーグナー派かハンスリック派かなどと愚にもつかぬ政治闘争を繰り返していたウィーン、そして第3番をワーグナーに献呈して以来、ワーグナー派としてハンスリックの憎悪の的になっていたブルックナー。毀誉褒貶渦巻く中、1891年、ウィーン音楽院を66歳で退職したのち、ウィーン大学から名誉博士号を授与され留飲を下げるが、その5年後の1896年、その一生を終える。亡骸は彼にゆかりの深い聖フローリアンの、彼が愛した大オルガンの真下に埋葬された。

(up: 2014.12.29)
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