コンテンツ > 音楽 > 作曲家 > マーラー > 交響曲第1番 | ||||||||||||||||||||||||||
スウィトナー+シュターツカペレ・ドレスデンのマラ1。スウィさんのいつも通り、奇を衒った表現はひとつもない。が、SKD の音色、慎ましやかな歌、透徹した譜読みによる全体の見通し、が一体となると、これほど味わいのあるマラ1になるのかという驚きがある。残念ながらこの廃盤ボックスでしか見たことないが、もし分売が出たら虚心からオススメする。 いつもとにかくうるさいシカゴ響が、8割位の力で丁寧にマーラーをやっている、そんな印象。この頃のアバドのマーラーは、タメが効いて見通しが鮮やかでとても好きである。 |
▽ Gustav Mahler
■作曲 1884〜88年 ■初演 1889.11.20 ブダペスト マーラー自身の指揮による |
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《楽器編成》
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■概要 マーラー28歳の時の作品である。 日本の指揮者・朝比奈隆は「マーラー全部はやらない(交響曲全集は作らない)。交響曲一番はやらない」という類の発言をしたことがある。理由は「形式感に劣る」ということだったと記憶する。ブラームスとベートーヴェン、それにブルックナーを得意とした指揮者ならではの発言で、確かにマーラーに、例えばブラームスのような構築美はない。思いのままに流れゆくような曲想、それはマーラーの作品の特徴だが、特にその特徴はこの交響曲第1番に顕著である。 勿論それは曲の魅力をいささかでも減じるものではない。 「主題」の作曲家(ベートーヴェンとブラームスはその典型である)は、自らの旋律をタテに区切る。極めて強い、理性的な意志で区切られたその旋律ブロックは、計算された時間感覚のなか、下から構築されていって大伽藍を形成する。それは旋律ブロックに関してもそうだし、和音構成についてもそうである。その作曲思想は、ドゥルーズ=ガタリの言葉を借りていえば「トゥリー型」である。その意味で、ギリシア=ヨーロッパの思想伝統に極めて合致する。もっといえば、ジョージ・スタイナーが述べたように、20世紀初頭に誕生した数々の大著が「様式的」かつ「暴力的」である(『マルティン・ハイデガー』)のと同じ意味で、この作曲思想もまた「不可避的に様式的」な「暴力」のひとつである。 いっぽう、マーラーは歌曲の作曲家である。リートの作曲家であり、旋律の作曲家であり、抒情の作曲家である。同じくドゥルーズ=ガタリの言葉でいえば「リゾーム型」である。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、地下を多方向的・重層的に走る地下茎のイメージ、すなわち「リゾーム型世界」を「トゥリー型」世界に相対置した。もちろんマーラーもまた、他の西洋音楽作曲家の伝統上にある作曲家である。その音楽は西洋音楽的構造を考慮に入れつつ曲を書いており、例えば交響曲第5番などは、表面的に混乱していながらそれは仮面に留まっており、内に渦巻く構築へ向けての意志たるや恐ろしいほどだ。そう、もちろん構築性はある。あるが、マーラーの場合、それがやわらかなのである。昆虫にたとえていうならこうだ。ベートーヴェンの交響曲ががカブトムシの如き剛直な外骨格をもっているとすると、マーラーは甘エビ程度の柔らかさをもつ外骨格しかもっていない。旋律の優美さ、また若々しさと相俟って、全体を包んでいる柔らかな外骨格によって、リート感が全面に感じられる作品、それがこの交響曲第1番を筆頭とした、マーラーの交響曲集合ではないだろうか(私見ではショスタコーヴィチがこの「やわらかな外骨格」感覚に極めて近い。彼もまた現代音楽家のなかで例外的に交響曲作曲を得意とした、歌曲の作曲家である)。 そもそもSymphonyとは、Sym(いちどきに)+Phone(鳴る音)という概念結合によって成立するものである。それは、駅の雑踏の騒々しさに似ている。駅のホームのような交響感覚、雑多な音がいちどきに放たれたかのような開放感は、他の作曲家ではなかなか味わうことができない。 ところで、この曲に特徴的な第3楽章から第4楽章に至るまでの流れについて、ヴィニャル著『マーラー』のよく知られた一節がある。 一般の聴衆はその大部分が、いつものごとく、形式上の新しさには無理解を示し、夢うつつの冬眠から乱暴にも目を覚まさせられた。最後の楽章の始まりで、私の隣に座っていた品のよい婦人は、手にしていた荷物を全部落っことしてしまったのである。第3楽章、民謡フレール・ジャックから取られた、鬱屈する暗さをもった第3楽章を経て、「嵐のような」(表現記号がまさに《嵐のように運動して Stuelmisch bewegt》!)第4楽章が出る。 初版は全5楽章構成だった。1889年ブタペストで初演された際は「交響詩」と呼称されて演奏されたが、余り聴衆の評価を得られなかった。初演後マーラーは、聴衆の余り芳しくない反応に際し、いろいろこの交響曲の外見を変えている。各楽章に表題をつけ、同時に曲全体に『巨人』なる名前を与えた(ジャン・パウルの同名小説に由る)。当時説明的に与えられた表題は以下のようになっている。 第1部 青春の日々より〜花、実、いばら 第1楽章 「春と永遠」 第2楽章 「花の章」 第3楽章 「順風満帆」 第2部 人間喜劇 第4楽章 「座礁して〜カロ風の葬送行進曲」 第5楽章 「地獄から天国へ」 しかしマーラーは、1893年、94年の上演の後、再びこの各表題、及び『巨人』名を消去し、更に第2楽章のアンダンテ「花の章」を削り、全4楽章構成の交響曲とする。これが現行のものである。 大指揮者にしてマーラーの弟子、更に同じユダヤ系の音楽家であったブルーノ・ワルターは当曲を「マーラーのウェルテル」と呼んでいる。つまり流転する青春の爆発力、そして苦悩、悲嘆などが表現された作品である、と。 ■内容 第1楽章 ニ長調 4分の4拍子。ソナタ形式で書かれている。荘厳なブルックナー開始を思わせるような、しかし非常に近未来的な、弦による高音から始まる。冒頭木管に出る4度は全曲を通じて極めて重要な役割を果たす。カッコウの鳴き声のようなフルートからの受け渡しもまた、4度である。やがて思い出したように木管が主要動機を示すと拍子が2分の2拍子に変わり、チェロに非常におおらかな主要主題が登場する。この主題は『さすらう若人の歌』の第2曲「今朝、野を越えて行くと」から取られたものである。展開部で副主題が登場する。滑らかな純愛への憧憬である。実に優美な、動きに溢れた旋律は切ない心の揺れ動きを示している。 |
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