コンテンツ > 美術 > ペーテル・パウル・ルーベンス | |||
spatium artis ( 2015.1.22 uploaded. ) | |||
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PIETER PAUL RUBENS | ||
■略歴 ルーベンス、また、リュベンスとも。 1577年ドイツ、ジーゲンに生まれる。現在のベルギー、アントウェルペンにて修行し、1598年に修行を終える。1600年、紹介状をもってイタリアに行き、いきなりマントヴァ公の宮廷画家となる。なお、当時のマントヴァ公はゴンザーガ家のヴィンチェンツォ1世。かのバロック最大の作曲家・クラウディオ・モンテヴェルディを宮廷楽長として抱えていたことでも有名である(なお、当のモンテヴェルディが宮廷楽長になったのは1602年だが、それ以前にゴンザーガ公お抱えの鍵盤奏者として長い間活躍していた)。 さてルーベンス、1608年には母の病気他の原因により後ろ髪ひかれながら帰国し、翌1609年にはオーストリアのアルベルト大公とイザベル大公妃の宮廷画家となる。アントウェルペンでは大工房を構え、イタリア風の色彩美とダイナミックな構図で群像劇を描き、北方バロック最大の画家としての評価を確固たるものとした。 壮年期にはスペイン・ハプスブルク家により彼は外交官としても重用され、イギリスとスペイン、そしてネーデルランドを何度も往復している。時まさに「近代の萌芽」30年戦争のまっただ中であり(ルーベンスが外交官として活躍しはじめたのが1621年ころ)、ヨーロッパは君主側の専制的欲動と非支配者側の自由への渇望とでどこも火薬庫状態であった。ルーベンスの周囲についていえば、ネーデルランドはスペインの圧政に対抗して独立しようとしており、スペインはそれを抑えようとし、そしてイギリスはスペインとの対抗関係の都合上ネーデルランドの独立党を支援していた。このヨーロッパ北部の混沌、一応の解決は1648年の終戦およびウェストファリア条約締結まで待たなければならない。 ルーベンスは外交官として精力的に活動しつつ、同時並行で絵も描き続けた。1630年からはスペインの王フェリペ4世に仕え、スペインではもうひとりのバロックの巨人、ディエゴ・ベラスケスとも交流している。晩年はアントウェルペンに帰るが、最晩年まで創作を続け、また工房での制作も合わせると非常にたくさんの作品を残した。 |
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■作品 "Juno en Argus"(1610-11) 《ヘラとアルゴス》 "Kruisafneming"(1611-14) 《十字架降下》 "Der Raub der Tochter des Leukippos" (1617) 《レウキッポスの娘たちの略奪》 |
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