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ボロディン四重奏団。分売が見つからなかったので全集。 |
String Quartet No.7 in fis-moll op.108 弦楽四重奏曲第7番 嬰ヘ短調 作品108 ■作曲 1960年 ■初演 1960.5.15 レニングラード グリンカ小ホール ベートーヴェン弦楽四重奏団による |
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《楽器編成》
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■概要 速書きで田園的情緒が際立つ弦楽四重奏曲第6番から4年後、1960年の作曲である。 この間、ショスタコーヴィチには幾つかの大きな出来事があった。妻ニーナの死後、恋愛関係にあったマルゲリータ・カーイノヴァとの電撃結婚および離婚、そして1957年春の第2回作曲家同盟会議。同会議でショスタコーヴィチはリベラル派を代表して魂のこもったスピーチを行い、結果的に「ジダーノフ批判」からの名誉回復が成った。 また、結果的に宿痾となる右手麻痺の治療のために初めて入院したのもこの間、1958年8月である。 急いて事を仕損じた先のマルゲリータとの再婚。恋愛関係時代の幸せな雰囲気はまさに先の第6番に出ているが、1956年の結婚後は、その結婚生活全くもってうまくいかず、二人の正式な離婚は1959年に成立した。 のち右手麻痺の治療のために再入院し、内省的となったショスタコーヴィチの胸に、前妻ニーナの思い出はいくつも去来したろう。ニーナが生きていれば50歳の記念年。振り返ってみればニーナとの結婚は1932年。ニーナ23歳、ショスタコーヴィチ24歳である。元々知り合ったのは1927年であってみれば、ショスタコーヴィチが新進気鋭だが貧しい、若い作曲家だった時期からずっと一緒だったことになる。そして激しい時代の波に絶えず押し潰されそうになったこの天才を、ニーナは若い頃から、まさに自分が死ぬまで支えた。作曲に行き詰まるとしばしば若い愛人に走るショスタコーヴィチを、夫婦仲が険悪な時期もありながら結局、1957年に自分が死ぬまで支えたわけである。 そして、ショスタコーヴィチは、この弦楽四重奏曲第7番を「ニーナ・ワシリエヴナ・ショスタコーヴィチの思い出に」捧げた。ニーナに捧げられた曲は、1932年に完成した《ムツェンスク郡のマクベス夫人》に続いて2曲めであるが、まさにこの、名曲でありながら不幸な受け取られ方をし再演の機会を失っていた《マクベス夫人》自体も、1957年のニーナの死から、ショスタコーヴィチはどうにか復演すべく改訂を重ね、結果的に1963年の《カテリーナ・イズマイロヴァ》として蘇らせた。 この曲、弦楽四重奏曲第7番、そして《カテリーナ・イズマイロヴァ》を見るにつけ、ショスタコーヴィチにとっていかにニーナが大きな存在だったのかが改めて知れるというものである。 ■楽章 第1楽章 アレグレット 嬰ヘ短調 4分の2-4分の3拍子。展開部なしのソナタ形式。ニーナとの若き日を回想する楽章。第1主題は舞曲的に第1ヴァイオリンで出る。ショスタコーヴィチの音名象徴が含まれている旋律である。コミカルにニーナの口調を真似ているようにも聞こえる。第2主題もダンサブルにチェロに出る。反復ののちカノン的にヴァイオリンが応答する。夫婦の会話のようだ。「面白かったね」といっているようにも聞こえる。ピッツィカートで主題が再現される。結尾から、第2楽章に続く。 第2楽章 レント ニ短調 4分の2拍子。3部形式。弱音器をつけて演奏する。第1ヴァイオリンが半音階的・内省的な第1主題を出す。この旋律は第1楽章主題とも連関性がある。中間部は葬送行進曲のような楽想である。 第3楽章 アレグロ-アレグレット 嬰ヘ短調 4分の4拍子-4分の3拍子-4分の2拍子。前半は上昇気流を感じさせるフガート。上下降する旋律が繰り返され、緊張感を高めていく。対旋律にはやはりショスタコーヴィチの音名象徴が含まれる。頂点でやや力が弱まり、ワルツに変容する。第2楽章、および第1楽章の旋律を思い出すように再現し、ワルツと幸せな混合が行われたあと、第1楽章と同様の結尾がピッツィカートで再現され、静かに曲を終える。 ■付記 ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲のなかでも特に短い曲であり、全部で15分に満たないものであるが、短いだけに高度な作曲技法とショスタコーヴィチ自身のニーナに対する想いが詰まっており、凝縮した、非常に心に迫る曲である。 (up: 2015.1.24) |
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