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【補筆1】 20世紀最強の交響曲作家がタコさんならば、二番目は一体誰だろうと考えるのも一興である。シベリウス?ニールセン?コープランド?ハルトマン?よよよ吉松隆?

【補筆2】 ドビュッシーは非常に彼らしい弦楽四重奏曲を一曲だけ残している。

※註釈1) 司祭が「ヤロスラフ」という名を付けることに反対したのは、ヤロスラフの洗礼名をすっかり忘れたためだったという話が各所に出ている。

※註釈2)
 ドミトリー少年の父親もドミトリー。スラヴ系に見られる「ヴィチ」というのは「息子さん」という意味があるそうで、ショスタコーヴィチの正式名は「ドミトリー・ドミトリェヴィチ・ショスタコーヴィチ」である。「ドミトリーの息子さんのドミトリーくん」という意味である。




《ことば》 「伯楽」とは馬を鑑定する名人のことで、「世に伯楽あり、しかるが後に千里の名馬あり」といわれる。伯楽がなければ名馬もただの馬、ダイヤも腕のたつ職人に磨かれるまでは透き通った石ころである。「名馬は常にあれど伯楽は常にあらず」(韓非)。

【補筆3】 アレクサンダー・グラズノフは現在なお、管弦楽法の大家として名を残す。どの作品もよく鳴る。尤も、音楽自体はショスタコーヴィチなどには二歩ほど劣る。


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第一部 ペテルブルクに神童生まる

 疑いもない、20世紀最強の交響曲作家である。

 そして、ハイドン以来、作曲家における創作の中心が交響曲と弦楽四重奏曲にあるとしたらば、ショスタコーヴィチは疑いもなく、四つ相撲・正攻法・真正面・大上段、きわめて正統的orthenticな作曲家である。あるいはそれを「18世紀の遺物」としたならば、彼は前世紀のイディオムを用いて作曲をしたということになる。
 ショスタコーヴィチは交響曲を計15曲、弦楽四重奏曲も15曲、歌劇を少しと、映画音楽を含めた劇伴音楽、バレエ音楽などを残した。

 18世紀の古典主義から19世紀初頭までの時代は、ハイドン-ベートーヴェンによって、ジャンルとしての交響曲と弦楽四重奏曲が形式的完成を見た時代である。大編成で複雑な構成を誇り、時には人生を背負う交響曲と、交響合奏の最小単位でソナタ形式の精妙と楽器それぞれの音色が溶け合う優美を見せる弦楽四重奏曲。それらは、彼らが完成させたソナタ形式の、そして形式を好む独墺音楽の象徴である。しかしこのジャンルは、完成がなされたとたん次第に力を失っていった。少なくとも新たな展開を見せつつ、リストが、ドビュッシーが、ラヴェルが、交響曲或いは弦楽四重奏曲に全力で取り組む期間は、ついになかった。

 しかしそれにしても、何故ショスタコーヴィチに魅力を感じるのかといえば、改めて思うに、1917年に始まった実験国家、ソヴィエト社会主義共和国連邦という奇妙奇天烈な国、その国とまさに寄り添うようにして生き、その国家の壮年期に自身の全盛期を迎え、抑圧され迫害されながら利用もされまた時には利用しまた追従し、どうにか丁々発止やりあって遂に生き抜いたショスタコーヴィチに、われわれは「人間」を見るからではないだろうか。つねに「組織」なるものに抑圧され管理統制されながらも、自由と生存をかけてギリギリのところで、あるいは戦い、あるいは妥協する(大っぴらに戦うとあっさり殺されてしまう)ところに、「人間」を見るからではないだろうか。
 そしてそうだとすると彼を見ることで、ソ連の歴史も透かして見ることができる。それは面白く、興味深く、恐ろしく、そして限りなく哀しい。



 帝政ロシアでは、1905年に歴史をゆるがす事件が起きる。すなわち、ロシア正教会の僧ガポンに率いられた民衆が、ペテルブルクの冬宮に示威行進中、軍隊の発砲によって多数の死傷者を出した事件、いわゆる「血の日曜日」事件である。折からの生活難に苦しむ民衆はこれを契機に各所でストライキを起こし、同年には戦艦ポチョムキン号の叛乱が発生する。各大都市では「ソヴィエト」(労兵会)が成立、12年後の革命の気運は、着々と高まりつつあった。

 その翌年である1906年の9月12日、、ペテルブルクにて男の子が生まれる。当初、父ドミトリィ・ボレスラヴォヴィッチはその赤ん坊に「ヤロスラフ」という名をつけるつもりだったが、洗礼式当日、司祭の反対に遭う(※註釈1)。やむなく彼はその子に自分と同じ「ドミトリィ」という名を与えた。

 かくしてここに、ドミトリー・ドミトリーエヴィッチ・ショスタコーヴィチ(※註釈2)が誕生した。

 父親は度量衡検査院の技師、そして母親ソフィアはピアノ科出身であり、比較的裕福な家庭で、音楽がたえず周りにあるような環境であった。ただし、後にショパン・コンクールで入賞するほど、ピアノ演奏にも卓越していた彼の後年からは信じられないのだが、幼少の頃の彼はピアノを弾くことを頑強にいやがったという。理由は、既にピアノを習っていた姉マリアがレッスンの厳しさゆえによく泣いていたのを見ていたからのようだ。
 しかしある日、半ば強引にピアノの前に座らされたドミトリー少年は、多くの作曲家の幼少時代と同じように、並はずれた音感と音楽の記憶力を見せた。ひととおり楽譜と演奏記号の説明を受けたドミトリー少年は、譜面台におかれたハイドンの交響曲の緩徐楽章を、ゆるやかに、しかし正確に弾きだした……。
 かくして彼は、母親から少しづつ、ピアノ演奏の手ほどきを受けるようになる。

 さて、歴史上の偉人には常に、能力は無論のこと、人間性においても非常に優れた師が居る。じゃじゃ馬は腕利きの伯楽に錬磨されて名馬となり、猛馬は無能の伯楽に鈍麻されて駄馬となる。

 ドミトリー少年は1918年、ペテルブルク音楽院のローザノヴァ先生のもとにピアノを習いに行くようになる。ローザノヴァ先生とは、母ソフィアの、ペテルブルク音楽院時代の師である。ローザノヴァは辛抱強くドミトリー少年のピアニズムを伸ばしながら、同時に彼が秘めている作曲能力にも気付き、作曲をも習うべきだと両親に進言する。ドミトリー少年の手元には、すでにこの時点で、数十曲の小曲がしたためられていたようだ。
 ところで、先に腕利きの伯楽という話を出したけれども、実際は無能の伯楽、またはわれわれのような凡人の一部もまた偉人伝に登場し、しばしば彼らは主役の力を引き立てる。いわば《箸休めの塩昆布》の役割を忠実にこなしてくれるものである。ショスタコーヴィチの少年時代においては、その役はまずアレクサンドル・ジロティという名の指揮者・ピアニストが引き受けることになる。
 ローザノヴァに作曲の力のお墨付きをもらった両親だが、息子の能力に確信が持てず、父親はジロティに相談に行った。
 そしてその、息子の音楽的才能について相談を受けたジロティの返事はこうだ。

 「この子は、モノになりません。音楽的な才能がありませんから」

 のちに全世界へ名を轟かす大作曲家に対して、何という物言い!
 しかし他でもないこの愚鈍な、目利かずの物言いによってのみ、ジロティは歴史に名を残している。歴史の残酷さだといえよう。
 ジロティに酷評されたドミトリー少年は一晩中泣き暮らしたという。それまで周囲に讃仰されていた音楽的自意識は、ここで大いに崩れたであろう。ジロティに会わせてみた父親もまた、平穏な心持ちではなかったであろう。ただ、ここで慰めに終始したり、あるいは泣くがまま我が子を放置したりするのは凡俗の親であって、そのような親元には決して楽聖など生まれはせぬ。
 我が家で泣きに泣くドミトリー少年を見かねた両親は、つてをたどって、当代随一の作曲家であり、ペテルブルク音楽院の院長もつとめていたアレクサンダー・グラズノフのもとに、落胆常ならぬ息子を連れて行く。
 かくして、のちに歴史に名を残す大作曲家二人は、初めて顔を合わせた。
 対面し、ドミトリー少年の作品を聴いたあと、小太りで如何にも精力に溢れた、しかし既に自作曲に行き詰まり、アルコール中毒に陥っていた作曲家は驚くべき評価を、母親に伝えた。母親は、消え去らないようにであろう、確かめるためでもあろう、また信じがたかったゆえでもあろう、その言葉を書き留めている。
 グラズノフはこう述べた。

 「音楽院のなかで、かつて、あなたの息子さんほど才能のある子供がいたことは記憶にありません」。

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