コンテンツ > 音楽 > 作曲家 > ショスタコーヴィチ > 作品リスト > ムツェンスク郡のマクベス夫人 | ||||||||||||||||||||||||||
日本語版品切れの模様なので輸入盤の安いやつを。正直申し上げてこのチョン・ミュンフン指揮バスティーユ歌劇場管弦楽団のものしか持っていないが、浮気者のわたしも他のものを必要としていない。この演奏は大変メリハリがあってルートが効いており、いつもはシャバシャバして水っぽい音をたてるバスティーユ管も好調。タイトルロールはマリア・ユーイング。ほの暗い声でこれまた◎。セルゲイ役はセルゲイ・ラーリンで、もうちょっとこう、サミュエル・レイミー的に男臭くてもいいがこれも○。そして何たって第4幕にちょろっとしか出ない老囚人をクルト・モルがやっているという豪華さ。地響きするようなモルの声は、シベリアの凍てつく大地を寄る辺なく歩く流刑囚の挽歌を表現して余りある。 |
Lady Macbeth of Mtsensk Distinct op.29 歌劇《ムツェンスク郡のマクベス夫人》 作品29 ■作曲 1930-32年 ■初演 1934.1.22 レニングラード マールイ劇場 サモスード指揮マールイ劇場管弦楽団による ■台本 アレクサンダー・プレイスとショスタコーヴィチによる ■言語 ロシア語 ■時代 19世紀 ■場所 ロシア・ムツェンスク郡 |
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《楽器編成》
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■概要 1930年1月、新進気鋭の作曲家ショスタコーヴィチ24歳は、彼にとって初めてとなるオペラ《鼻》を初演、一般観衆には悪くない評価を受けるがソヴィエト音楽界からは冷たい反応を浴びる。《鼻》に見受けられる、彼の持ち味である諧謔も、また西洋の新しい音楽技法も、「形式主義的である」というわけのわからぬ理由で非難される。 勿論こんなことで悄気げてしまうショスタコーヴィチではなく、また後に見られるように、体制におもねったふりをして諧謔を巧みに隠すような老獪もまだこの青年には無縁であって、《鼻》を作曲したあとは次に見られるように、西欧モダニズムをたっぷり含んだ劇音楽およびバレエ音楽を次々に作曲してゆく。 op.15 歌劇《鼻》 op.16 タヒチ・トロット(V・ユーマンス「二人でお茶を」編曲版) op.17 D.スカルラッティの2つの小品 op.18 映画音楽《新バビロン》 op.19 劇音楽《なんきん虫》 op.20 交響曲第3番 op.21 日本の詩による6つのロマンス op.22 バレエ《黄金時代》 op.23 ドレッセルの歌劇《コロンブス》のための2つの小品 op.24 劇音楽《射撃》 op.25 劇音楽《処女地》 op.26 映画音楽《ひとり》 op.27 バレエ《ボルト》 op.28 劇音楽《ルール・ブリタニア!》 op.29 歌劇《ムツェンスク郡のマクベス夫人》 そしてこの流れのひとつの頂点ともいえるものが、この作品29、《ムツェンスク郡のマクベス夫人》である。初演後ソヴィエト連邦国内のみならず海外にもすぐに波及するほどの大評判をとるが、「非道徳的な」脚本と斬新な音楽がついたこの意欲作は、予想されたように絶賛のみならず非難もまた巻き起こした。 当局としてもこの作品のみならず、このソ連を代表することになるだろう若き作曲家が創作するここのところの「反社会主義的(=西洋モダニズム的)」な作品群をよく思っていたわけもなく、1936年1月26日、ボリショイ劇場にて「赤いツァーリ」スターリン臨席のもと行われた当オペラ上演の2日後、党中央機関紙《プラウダ》に、「音楽の代わりの支離滅裂――オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》について」という無署名の論文が掲載された。いわゆる「プラウダ批判」である(当Webサイト「ショスタコーヴィチの生涯」第三部参照)。 この時期、大粛清は頂点に達し、誰も彼もが逮捕され行方不明になりあるいはおおっぴらに銃殺されていたこともあり、さすがのショスタコーヴィチもこの作品を上演にかけなくなる。同様にマーラー的で分裂的で見事な構成の交響曲第4番も初演を待たずしてオクラ入りとなり、起死回生の(刺を各所に隠している)交響曲第5番を作曲、大喝采を浴びて(文字通り)首の皮がつながる、そのような流れとなる。 彼としてはこの後、諧謔を素直に出すのではなく、彼特有の半音語法やねじれた転調のなかにどす黒い情念を隠し、さらにその情念の中に諧謔を埋め込んで表示するようになるのであり、この《ムツェンスク郡のマクベス夫人》および同時期の交響曲第4番は青年時代の「皮肉をこめた才気煥発」の最後の素直な輝きということになるだろう。 なお、作品番号114を与えられた《カテリーナ・イズマイロヴァ》というオペラは、この作品を改訂したものだが、台本内容自体はそのまま受け継いでいる。第1場と第2場の間、第7場と第8場の間にある間奏曲はこの際に追加されている。 ■内容 第1幕 第1場 商人・イズマイロフの家。カテリーナは若妻であるが、すでに夫ジノーヴィとの関係は冷えきっている。ボリスは子供ができない夫婦のことにつきカテリーナをなじる。ジノーヴィは自らが所有経営する製粉所で土手が決壊したということで、数日家をあけなければならなくなる。カテリーナおよびボリスと別れの挨拶をするジノーヴィ。別れの哀しみを口ではいうが、音楽は奇妙に明るい。夫が旅立った後、使用人アクシーニャが、セルゲイの噂をカテリーナに耳打ちする。新しい使用人は女たらしで有名なんですよとこういうわけである。 間奏曲:アレグレット。4分の2拍子。符点+スタッカートつきの軽快なギャロップで、そのまま第2場に続く。 第2場 イズマイロフ家の中庭。アクシーニャを他の男の使用人が下品な言葉でからかう。セルゲイを中心に、だんだんそれは強姦めいたものになっていく。そこにカテリーナ登場、「なぜ女をいじめるの?」と騒ぎを止める。「じゃあ俺は誰とおもしろおかしく楽しんだらいいんだ」と訳の分からぬことをいうセルゲイに対し、女の名誉をアリオーソで歌うカテリーナ。セルゲイは何と力比べを挑む。受けて立つカテリーナ。しかしやがてボリスが現れ、二人を引き離す。 間奏曲:アレグロ・コン・ブリオ。スケルツォ的で諧謔的な管弦楽。先にセルゲイが「誰と楽しめばいい?」と歌った旋律と、カテリーナが「なぜ女をいじめるの?」と歌った旋律が絡みあうが、最後に金管がセルゲイの動機を勝ち誇るように鳴らして終わる。この間奏曲および続く第3場最後の音楽は、リヒャルト・シュトラウス《薔薇の騎士》冒頭、およびワーグナー《トリスタンとイゾルデ》冒頭に並ぶ、典型的な性的描写の音楽である。絵画で例えるとクールベの《世界の起源》。 第3場 カテリーナの寝室。最初に一度だけセルゲイの動機がやわらかく鳴る。つまりカテリーナはセルゲイに惹かれつつある。その後カテリーナが「誰も話す相手がいない」と悲しげに歌う。そこに舅ボリスが見回りにやってきて、早く寝ろと注意する。不承不承わかりましたというカテリーナ。続けてひとりになって「誰にでも何かがほほえみかける 私にだけ誰も来もしない 誰も私の細腰を抱きしめもしない」と嬰ヘ短調で歌う。完全に欲求不満の歌である。果たしてセルゲイやってくる。本を貸してくださいとのことだが、部屋にはいるとすぐセルゲイはカテリーナへの想いを語る。そしてまんざらでもないカテリーナを押し倒す。ボリスから軒下で「寝たのか」の声。「寝ます」と答えるイズマイロヴァ。結局流れでセルゲイはイズマイロヴァを犯してしまう。鳴り響く「なぜ女をいじめるの?」の動機。 第2幕 第4場 イズマイロフ家の中庭。寝そびれたボリスがうろうろしている。美しいカテリーナの部屋にいってその熱い身体を満足させてやろう、とか抜かす。さて行ってやろうというところで目の前を雨樋をつたってセルゲイが降りてくる。捕まえるボリス。大声で使用人を起こし、持ってこさせた鞭でセルゲイの背中を打つ。ジノーヴィも製粉所から呼び戻せと伝えるボリス。そしてただ2階からその光景を見守るしかないカテリーナ。ボリスは血まみれになったセルゲイを倉庫に閉じ込めるよういいつけ、カテリーナにはきのこ料理を作るように命令する。カテリーナはその料理にネズミ駆除用の毒を盛り付ける。食ってすぐに苦しみだすボリス。カテリーナはボリスの体を探り、セルゲイが監禁されている倉庫の鍵を見つける。今際の際のボリスは、司祭を呼べと叫ぶ。ほどなく絶命。カテリーナは悲しむふりをするが、音楽は浮き足立っている。間奏曲:ラルゴ。4分の3拍子。12の変奏をもつパッサカリア。引きずるような旋律は、カテリーナの運命を暗示しているようである。 第5場 カテリーナの寝室。セルゲイとカテリーナが二人して夫婦のベッドに横たわる。カテリーナはセルゲイを愛するようになっている。セルゲイはカテリーナと一緒になることで裕福になりたいと思っている。しかしボリスの亡霊登場。罪の報いがかならずあるぞと呪いの言葉を叩きつける。恐れるカテリーナ。そこに不意にジノーヴィが帰ってくる。驚いてセルゲイを隠すカテリーナ。しかし彼の所有する革帯が残っていた。ジノーヴィは革帯を見つけてそれでカテリーナを叩きつつなじる。飛び出てくるセルゲイ。ジノーヴィと取っ組み合いになり、やがて首を絞めて殺してしまう。死体を酒蔵に隠そうと画策する二人。セルゲイは死体を運び終えて酒蔵から出てくる。「今日からあなたは私の夫!」と喜ぶカテリーナだが、音楽は葬送行進曲のような暗鬱なものとなる。 第3幕 第6場 イズマイロフ家の中庭。カテリーナとセルゲイの結婚式が行われる当日。正装の二人は、教会に向かうところである。場面が展開して妙ちきりんな音楽とともに貧しい百姓が登場。酒を盗もうと鍵を壊してイズマイロフ家の酒蔵の中に入る。出てきたのは高価なワインどころか、悪臭漂うジノーヴィの腐乱死体。驚愕恐怖した百姓は警察に連絡すべく駆け出す。 間奏曲:アレグロ。4分の4拍子。ト短調ベースだが自由な転調をともなう。「ディエス・イレ」のパロディである。 第7場 警察署。警察署長と警官たちは、カテリーナの結婚式に招かれなかったということでいたく立腹して座っている。そこへ死体発見の情報。もうけ口がみつかった、飯にありつけると喜び勇んで結婚式へ向かう。 間奏曲:プレスト。4分の2拍子。ポルカだがスタッカートで奏される主題はとてもシニカルである。警察隊の到着をシニカルに描く。 第8場 イズマイロフ家・中庭での祝宴。来客は4分の4拍子、フガートにて結婚を祝う。騒ぎの中で、カテリーナは酒蔵の鍵が破られていることに気づく。逃げる時間もあらばこそ、まもなく警官たちが到着、二人は逮捕される。 第4幕 第9場 シベリアの街道沿い。湖畔。護送の隊員に監視されながら、流刑となる囚人たちが野営の準備をしている。カテリーナ、セルゲイ、また若く美しい囚人ソニェートカも居る。老囚人がヘ短調でバラードを歌う。「道は果てしなく、雪は野原をおおう」と歌い始めると、囚人たちの合唱が加わって高揚する。やがて夜になり、囚人は男と女に分けられているが、カテリーナは見張りに賄賂を渡し、セルゲイのもとにやってくる。セルゲイは見向きもしない。不幸の根源はカテリーナにあるという言い方である。セルゲイの心はもはやソニェートカに移っている。セルゲイはソニェートカのもとへいき、愛を訴える。ソニェートカは、自分の破れた靴下を見せ、愛の証拠に靴下を都合しろという。セルゲイはカテリーナのところへ行き、足が痛いと訴える。自分の靴下を脱いで与えるカテリーナ。カテリーナはたまさか幸せになるが、その靴下を履いてソニェートカがセルゲイと逢引するのにすぐに気づいて絶望するカテリーナ。「森の奥の湖の水は、わたしの良心のように黒い」という悲しいモノローグを4分の4拍子にて歌う。逢引から戻ってきたソニェートカは、惚れたセルゲイに騙されたおバカさん、とカテリーナをなじる。嫉妬と哀しみからカテリーナはソニェートカを湖へ突き落とし、自分も続いて身を投げる。老囚人が「一歩また一歩 ふみしめる 足かせをならしつつ」と厳粛に歌う。何事もなかったかのように、流刑囚は野営地を去り、空虚な舞台を残して幕となる。 ■付記 やはり20世紀を代表するオペラの名作であることは疑いない。 台本は基本ロシア語なので何言ってるかまったくわからんが、そんなに入り組んだ構成を行ってはいないため、主要動機さえ覚えてしまえばとてもおもしろい。度重なる劇音楽作曲で情景表現の腕を磨いたショスタコーヴィチの面目躍如、集大成といった風情である。 当局に圧力をかけられ続けて遂に倒錯の極みに入ったショスタコーヴィチも大好きであるということを前提にして書くが、わたしは、このようなのびのびとした真っ直ぐな諧謔を表現できるショスタコーヴィチが、角を矯められることなく、それこそ後にアメリカに生まれたバーンスタインのように自由に成長できたら、のちの作品はどうだっただろうかという想像を、この《ムツェンスク郡のマクベス夫人》を聴く度に禁じ得ない。 この《ムツェンスク郡のマクベス夫人》に表現されているのは、彼が生まれ育った帝政ロシア首都・ペトログラードの文化的蓄積である。《マクベス夫人》はペトログラードの文化的遺産をたっぷりと受け取り、真っ直ぐに育ったひとつの果実、レニングラードではなくペトログラードが誇るべき世界的果実である。 (up: 2015.1.9) |
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