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Symphony No.12 "1917" in d-moll op.112 交響曲第12番 《1917年》 ニ短調 作品112 ■作曲 1960〜61年8月22日 ■初演 1931.10.1 レニングラード フィルハーモニー大ホール エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮 レニングラード・アカデミー交響楽団による |
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《楽器編成》
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■概要 ひとに予知能力があるのかないのか、疑わしい議論のあるところだが、予測能力というのは大小かかわらず多くのひとが具えており、これから行おうとする行動が将来によからぬ結果を持ち来たらす可能性が大きい時、ひとはその行動を差し控えるか、あるいは差し替える。 当交響曲第12番は、ほぼ作曲する度ごとに議論を巻き起こした他の交響曲と比べて、その成立は比較的おとなしいけれども、成功したわけでは決してないし、また、どうもすんなり作曲されたわけでもないらしい。 ペトログラード、のちのレニングラード生まれのショスタコーヴィチは、ことあるごとに、レーニンに捧げる作品の計画をもらしてきた。これは当局に対する単なる追従であるという評もたくさんあるが、故郷にて打ち上がった革命思想および革命の父に対する思いはそんな単純なものではなかったと思われる。 1917年、スイスから帰国したレーニンは、ペトログラードにて革命の声を挙げ、ソヴィエトに全ての権限を集めることを宣言、待機中のボリシェヴィキが呼応し、無血革命に成功する。これについてショスタコーヴィチは「自分は十月革命の事件の証人」のひとりであり、この事件は決して忘れられないこと、「こういった日々の忘れられない思い出が、交響曲を書く手助けになっている」こと、などを述べている。歴史が揺動する瞬間に居合わせた人間として、もしそれが後々変質して自分を圧迫する敵になったとしても、歴史的事件とその当事者に対する一種の感銘はずっと心に残るだろう。そしてもし、嫌々ながらも体制に追従を行わざるを得ない場合、彼はスターリンではなくレーニンをその対象に選ぶだろう。 この作品が完成する直前、ショスタコーヴィチは圧力に負けてついに共産党員になってしまっていた(当Web「ショスタコーヴィチ」第7部参照)。共産主義に捧げ物を行う必要が生じていた。いっぽうでショスタコーヴィチの友人たちは、押しも押されもせぬ巨匠となったショスタコーヴィチがここにきて共産主義者の仲間入りをしたことに対して非常に落胆していた。 音楽学者レベディンスキーによると、この曲は発表直前まで、レーニンのパロディとして作られていたらしい。それを直前になって撤回し書き直した結果、このような《出来の悪い》曲が出来たと伝えられる。真偽定かではないが、元々ここで作られていた曲が「レーニンのパロディ」だったとするならば、一石四鳥を狙ったショスタコーヴィチの意図が非常によくわかる。まず、@長いこと宣言して果たせなかった、レーニンの曲を捧げるという口約束が果たせる。A共産主義に対する捧げ物としてもレーニン交響曲は妥当である。Bパロディにすることによって、共産主義嫌いの友人に義理が果たせる。C第6番、第9番と書いたパロディ交響曲の系譜として、定期的かつ妥当な順番で新しいパロディ曲が発表できる。 1961年10月、第22回共産党大会をひかえたモスクワにて、当交響曲が演奏され、結果として不評に終わった。大した話題になることもなく、「駄作」の評価をされ、レパートリーから消えていった。折しも作曲家若き頃の大作、交響曲第4番が25年もの休眠ののち初演されたことも大きかった(同年12月30日)。後世の視点からみれば、交響曲15曲中最も評価の低い交響曲第12番の初演の直後に、最も評価の高い交響曲のひとつである第4番初演が行われたというのはまったく皮肉である。両者を聞き及んだ聴衆はショスタコーヴィチの創造力の衰えをはっきりと自覚しただろう。この曲が、直前に差し替えられた急ごしらえのものなのかどうかは定かではないが、少なくとも、そのような話が出る程度の反響でしかなかったということはいえよう。駄作ではないけれども、しかし今までの曲と比較すると、奥深い音楽的「襞」に欠けるぬっぺりした作品であって、今までショスタコーヴィチの前衛性を支持していた連中が諸手をあげて賞賛するには足りない作品であることは明らかである。いっぽうで第5番のように、誰でもがよく分かるベートーヴェン的作品でもない為、批判者が賞賛するには至らない。それらの結果としての大不評であったのではあるまいか。 また、後世の視点からしてみると、これに続く第13番、14番の革新性を見るにつけ、やはり12番にはなにがしかの、ショスタコーヴィチの妥協があったように思われる。 ところでこの曲の第1楽章は、モデラートの序奏部がついたアレグロ楽章として構成されている。作曲の巧拙は措くにしても、この交響曲のアレグロ楽章が、「一般的なアレグロ」の形式をとっており、そしてこれはショスタコーヴィチの曲に珍しいことである。 ■楽章 第1楽章 革命のペトログラード モデラート〜アレグロ ニ短調。4分の4拍子。最初、4分の5拍子ベースで序奏部が弦中心に出る。この圧しつけられるような旋律は、第4楽章でも再示される主題である。やがてファゴットがアレグロで、発達した序奏旋律を出す。これが第1主旋律である。のち、やや序奏旋律に似ているが、より開放的な旋律が低弦部に出るが、これは第2主旋律であり、両者とも全楽章を通じて現れる。 第2楽章 「ラズリーフ」 アダージョ 嬰ヘ短調。3分の2拍子。三部形式。「ラズリーフ」というのは、レーニンがスイスから帰国後、革命のプランを練るべく潜んでいた近郊の湖の名前である。主部には、オスティナート風の旋律で、ショスタコーヴィチの音名象徴が現れる。第2主題はホルンで出る。中間部の旋律は第3楽章を先取りしている。 第3楽章 「アウローラ」 アレグロ 変拍子。三部形式。「アウローラ」とは巡洋艦の名前で、この船の号砲によって革命が開始された。ピッツィカートで出るのは「アウローラの主題」である。それは描写音楽のようで、弦のさざなみのなか、第1楽章第2主旋律が現れ、「アウローラ」が人々の前にその姿をあらわす。「アウローラの主題」は力強く展開される。 第4楽章 「人類の夜明け」 リステッソ・テンポ ヘ長調。3分の2拍子〜アレグレット ニ長調。4分の3拍子。ソナタ形式。まずホルンにて燦々たる第1主題が現れる。弦と木管にそれぞれ受け渡され、やがて弦が奏する3拍子の副主題が現れる。展開部、あるいは変奏部は、入れ替わり立ち替わり旋律が登場する。第1楽章第1主旋律、第4楽章冒頭主題、第1楽章第2主旋律。そして最強音にて盛り上がりがあらわれる。第1楽章第1主旋律が登場し、やがてニ長調によるコーダに移り、朗々たる展開のなか、華やかに楽章を終える。 ■蛇足 弦合奏にさらに2プルト(4人)ずつ追加することも想定している大曲ではあるが、彼の曲にしばしば登場する軽妙な楽器であるシロフォン、チェレスタ、グロッケンシュピールなどが一切入っていないのが興味深い。楽器編成はブラームスかと思われるほど真面目一徹の構成である。ショスタコーヴィチはやはり真面目に作ろうとしたのだろうか?ショスタコーヴィチの、いわゆるパロディズムとでもいうべきものが感じられないのは、なんだか不気味でさえある。 この交響曲に先立つ交響曲第11番はその副題を「1905年」といい、ロシア革命の発端となった1905年の「血の日曜日」事件をモティーフにしている。第11番と第12番は、交響曲第2番《十月革命に捧ぐ》と第3番《メーデー》が対になるのと同じく一対の「革命に捧げる作品」である。 (up: 2008.2.25) |
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