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※注釈1)
最初からユダヤ抹殺を狙っていたのは明らかで、この被害妄想パラノイアに陥っていたスターリンにより練られたユダヤ迫害計画は次の通りである。《殺人鬼の医師団を見せしめのの死刑に処する→ユダヤにないがしろにされていた国民激怒→街のユダヤ人を襲撃→国民から生命を守るという名目で、ユダヤ人をシベリアの強制収容所に集める》。▼亀山郁夫『大審問官スターリン』によると、53年2月には、ユダヤをシベリアに送り出すための客車が既に用意してあり、追放者リストも既に作成されていたという。

※注釈2)話によると、政府首脳はユダヤ人大粛清計画を練るスターリンの早期抹殺を画策していたともいわれ、発作を起こして倒れたところを意図的に放置、死亡せしめたという説もあるが、極めてありそうな話である。

※注釈3)私見によると、皆あの5番に見られるようなキモチイイ最終楽章を聴きたくてたまらんかったのではないか。あれ以来ヤミツキになったのではないか。

※注釈4) この弦楽四重奏曲第8番には、D-Es-C-Hという彼の名のアナグラムが山ほど出て来る。

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第七部 独裁者死す、しかし

 1953年初頭、スターリンによる反ユダヤ主義の運動が頂点に達する。1月13日にタス通信は、破壊活動に従事していた医師団の活動が公安によって摘発された、と伝えた。いわゆる「医師団事件」である。逮捕された医師9人のうち6人はユダヤ系だったが、彼らは《アメリカの国際ユダヤ人組織の指図によって動いており、ジダーノフを殺したのも彼ら、また政府高官の暗殺を狙っていたのも彼らである》、という恐るべき妄想報道がなされた(※注釈1)。もちろんスターリンをその出所とするものである。
 再び1930年代の「悪夢の大粛清」が始まろうとしていた矢先。1953年3月5日、ヨシフ・スターリンは突然、脳梗塞の発作を起こして倒れ、そのまま死亡する(※注釈2)

 遂に東の独裁者も逝った。ショスタコーヴィチはそのことによって浮かれたり楽観視したりはしていなかったようだが、それでも1953年末には、その緊張緩和を象徴するようにして、彼の作品の初演が相次いだ。弦楽四重奏曲第5番が11月13日に、同第4番が12月3日に初演された。

 スターリンが死に、マレンコフにその実権が移った頃から、ソ連の社会情勢は一種の「自由主義化」を辿り始める。いわゆる「雪どけ」である。音楽界においても1953年11月、アラム・ハチャトゥリアンが声を上げる。世界に衝撃を与えた論文「創造の自由とインスピレーション」である。そのなかで彼は、ソ連作曲界が貧困に窮しているのは官僚主義的な統制によるものだとし、創造の自由こそが社会主義リアリズムを生むと論じている。それからわずか一ヶ月、まさにハチャトゥリアン論文に呼応するかのように現れたのが、ショスタコーヴィチの大曲、交響曲第10番であった。
 1953年夏から本格的に着手されていた交響曲第10番は10月25日に完成し、1953年12月7日に、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルによって初演された。この曲はDSCH(レ・ミ♭・ド・シ)の音型を初めて(公表順でいえば)扱ったものである。いつものように曲構成をめぐる論争が起こり、第8番のとき同様、いささか小さくまた悲観的な最終楽章がその俎上に上った(※注釈3)。ただし第8番の時と相違して、今回はショスタコーヴィチ優位の結果で終わったようである。この曲はのちに、彼の代表作のひとつとなった。

 交響曲10番を書き終えたのち、彼の立場は、少なくとも政治的立場は安定したように思える。が、作品としては瞠目すべきものが出てきたと言い難い。ここから50年代末までのショスタコーヴィチはのちに「停滞期」であると言われている。
 それよりも、この時期にはショスタコーヴィチに身内の不幸が相次いだ。1954年12月4日、ショスタコーヴィチを支え続けてきた妻ニーナが、癌により死ぬ。自身の女性問題によりその結婚生活は危機を迎えたこともあったが、彼の一番のサポーターでもありそして二児にとっては掛け替えのない母親でもある女性の死に彼は打ちひしがれたし、それ以上に、家中の雑務に追われることになった。1956年には突然マルゲリータ・カーイノヴァという女性と電撃結婚するが、マルゲリータは音楽に理解のない女で、「急いては事をし損じる」の典型となる。去る1955年には、母ソフィアを亡くした。
 ついに父権的独裁者スターリンが死んだと思えば身内の母権の象徴が二人も後に続くという不幸続きのなか、その時モスクワに自宅を構えていたショスタコーヴィチは、全てから逃れるようにレニングラードに逃避する。1959年8月である。さしあたって不幸な結婚生活は、これにプンクトが打たれた。

 さて去る1958年3月、日本ではゴールデンルーキー長嶋茂雄が立教大学から颯爽と巨人入りし、プロ野球に一時代を築く第一歩を記していた頃、ソ連では第一回チャイコフスキーコンクールが開かれていた。この自国の大作曲家の名を冠したコンクールは現在でも続いており、音楽大国・ソ連の威信を高からしめるに多大な益あるものであったが、その実行委員長をショスタコーヴィチは務めていた。
 さらにもうひとつ、この年にはソ連音楽史にとって重大なことがあった。5月28日に出た中央委員会決議は、1949年に提出された中央委員会決議「ムラデーリのオペラ《偉大なる友情》について」以降の作品評価を修正するという立場のものであり、ジダーノフ批判により迫害された数々の音楽作品の名誉回復がなされた。ショスタコーヴィチはそれを聞き、チェリストのロストロポーヴィチと一緒に祝杯をあげたという。但しその乾杯は、ロストロポーヴィチの回想によると、非常にシニカルなものだったという。

 21世紀まで生きることになるそのロストロポーヴィチは1927年生まれのソ連出身のチェリストであり、その歌心とダイナミック・レンジの広さ、超絶技巧は数々の作曲家を刺激し、そしてチェロ曲の霊感を与えた。1959年、ショスタコーヴィチはそのロストロポーヴィチの演奏を前提とした曲を書く。チェロ協奏曲第1番である。第1楽章において作曲者本人のイニシャルDSCHの変形音型が登場し、第4楽章でスターリンが愛したグルジア民謡の一部が登場するこの謎めいた名曲は、ロストロポーヴィチに献呈された。

 1960年4月、ショスタコーヴィチは共産党に入党する。これは生涯で何度か行った大きな妥協のうちのひとつであり、彼は共産党に入らざるを得なかった状況を極めて屈辱的な事態と見なしたようだ。その苦渋が、彼の弦楽四重奏曲のなかでもすぐれて自省的自伝的な、弦楽四重奏曲第8番(※注釈4)の作曲につながったのだといわれる。入党せざるを得なかった理由として、共産党幹部から執拗な勧誘(あるいは圧力)を受け続け、それに負けたという説が有力であるが、ここにおいては「彼は好きこのんで入党したわけではなく、半ば強制されて無理矢理入った」ということを押さえておけば充分である。ただ彼ほどの地位や名誉のある人間がここにきて――粛清時代ならともかく、世は「雪どけ」の時節だというのに!――入党を果たしたというのは、共産党に距離を置くひとびとを等しく落胆させた。

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