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※注釈1)
 わたしはこの曲を、分かりやすいという意味も含めて再評価したいのだが、誰の評価も一様に低い。

※注釈2) 4番の初演後、「自分の最近のいくつかの交響曲より上だ」と本人が語ったと伝えられる。

【補筆1】 交響曲第13番を初演指揮したコンドラシンは1979年12月、オランダに亡命し、たびたびアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演して名演を見せた。だが、二年たらず経った1981年、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任する直前、心臓麻痺で急死した。あと十年生きればバイエルン放送響でタコ交響曲全集でも作ったのではないかと夢想すると非常に惜しい。

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第八部 終わりの始まり

 1961年9月14日、ショスタコーヴィチは正式に共産党員として認められる。続いて25日、レニングラードにおいて、ムラヴィンスキーの指揮により、交響曲第12番が初演された。《1917年》という副題をもつこの曲は、彼の生涯において何度か試みられた「レーニンを記念する曲」であり、第11番同様、革命を扱った曲となった。とはいえ、このいささか「単調な曲」の評価は高くない。のちに再評価がなされた曲も数多いなかで、いまに至るも「駄作」の定評が変わらない曲である(※注釈1)
 この年は、彼の交響曲の復活の年でもある。1936年に完成されながら休眠状態だった曲、交響曲第4番が、キリル・コンドラシンの指揮、モスクワ・フィルハーモニーによって初演された。それは好評だったけれども、マーラー的で輝くような、創造力溢れるショスタコーヴィチ若き日の仕事は、近年のショスタコーヴィチの衰えをも同時に感じさせるものであった。しかも生涯の交響曲15曲中、最も評価が低いと思われる12番の年に、最も評価が高いもののひとつと思われる第4番の初演が重なった(※注釈2)というのも皮肉であった。

 1961年、詩人エフトゥシェンコは、作家クズネツォフとともに、キエフ近郊バービィ・ヤールを訪れる。ここは第二次大戦中、ナチスがユダヤ人を含むキエフ市民を大量虐殺した場所である。反ユダヤ主義にかねてより反感を抱くエフトゥシェンコは訪問に基づいた詩を書き、志を同じくするショスタコーヴィチはその詩に感銘を受け、合唱付き交響詩に仕上げる。しかしエフトゥシェンコの詩集を読み進むうち、新たに詩三編を組み入れ、書き下ろしも加えて、これを交響曲化した。
 これなん交響曲第13番《バービィ・ヤール》である。
 反ユダヤ主義への反感、官僚主義、検閲への非難、政府批判などが含まれるこの曲の制作および初演は、当局から執拗な妨害を受けたが、それを振り切って初演に向けての準備は進んだ。
 ショスタコーヴィチ初演というと名が上がるのはまず、毎回専任のように行っていたムラヴィンスキーであり、じっさい、当初ショスタコーヴィチはいつものように、レニングラードの盟友・ムラヴィンスキーに指揮を依頼したが、断られた。ムラヴィンスキーの当時の妻は共産主義者で、その肝煎りがあったからともいわれてはいるが、第5番の初演から長年続いたタコ=ムラの盟友関係・信頼関係はここで決定的に損なわれ、その後二度とムラヴィンスキーが初演指揮をすることはなかった。
 初演の指揮をとることになったのは、前年第4番を指揮して信頼を得ていたコンドラシンである。初演を控えるコンドラシンにも当然政府は圧力をかけ、電話で呼び出して演奏を止めるように命じるが、のちに亡命する反骨の人コンドラシンはそれを毅然とはねつけた。そんな当局との緊張関係のなか、初演は1962年12月18日に行われ、大成功をおさめた。

 さて1936年以来、事実上上演禁止扱いとなっていた彼の大作オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》だが、ショスタコーヴィチは既に改訂作業に入っていた。改訂を始めたのは妻ニーナが亡くなった1954年頃である。その改訂版の上演は様々な妨害と無理解にあいながら1961年、モスクワ音楽劇場で取り上げられることが決定する。交響曲第13番の初演騒動と並行して準備が進められ、1963年1月6日、初演が行われた。

 《ムツェンスク郡のマクベス夫人》改訂版、《カテリーナ・イズマイロヴァ》初演で明けた1963年、彼は何度目かの沈潜期に入り、特にめぼしい作品を残していない。翌64年は、沈潜し蓄えた養分で名曲を量産する。弦楽四重奏曲第9番、第10番が作られ、エフトゥシェンコの詩による交響詩《ステパーン・ラージンの処刑》が作られた。
 1966年、ショスタコーヴィチは弦楽四重奏曲第11番、チェロ協奏曲第2番を作曲する。しかしこの年の5月28日、自作演奏会を終えた彼は心臓発作で倒れ、二ヶ月の入院を余儀なくされる。60歳の誕生日9月25日を目前に控え、彼は体力の衰えを感じざるを得なくなった。酒と煙草は厳に止められた。

 幾つかの歌曲を作曲したのち、1968年にはヴァイオリン協奏曲第2番を完成させた。この頃彼は、器楽の名手である盟友の演奏を想定して曲を書いており、たとえばチェリストは先に述べたロストロポーヴィチであり、また例えばこのヴァイオリン協奏曲第2番で想定されていたのは同じく盟友、ダヴィド・オイストラフである。やはりこの曲は、オイストラフに献呈されている。

 1969年初頭、彼は再び心臓の不調で入院する羽目になる。その時うちこんだのが交響曲第14番である。初めて曲目を見る人を例外なく驚愕させる前例のない11楽章構成のこの交響曲は、当時のショスタコーヴィチの不安を指し示すように「死」をテーマにしたもので、のちには《死者の歌》という副題がつけられる(但し本国以外)。初演は10月に決定していたが、自らの命を危ぶむ作曲者自身によって先行公開の要望がなされ、1969年6月21日、公開リハーサルが行われた。

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