《ことば》 「形式主義」というのは元々文学の言葉で、1910年頃に行われた文学運動を指す。要諦は「文学研究は、文学を文学たらしめているものを研究すべきだ」という主張であった。ただ1920年以降、この運動は「反マルクス主義的」であるという評価がなされ、同時に「実験性」を帯びた芸術運動に対して、非難の言葉として使われるようになった。

【補注】音楽における「形式主義」が何を指すかについては明確ではないが、次の1948年5月ソヴィエト音楽家会議議事録が参考になろう。▼《確かに、表面には現れていないが、ソビエト音楽で二つの方向性が激しい戦いを交わしている。ひとつはソビエト音楽の健康的で、進歩的な側面を示すもので、古典的な遺産、とくにロシア音楽学派の伝統が大きな役割を果たすことを見いだし、それを認識する方向性である。それは、崇高な理想主義と音楽の内容、さらには音楽の真実性とリアリズムとの結合に基づくものであり、人民と、その人民のもつ音楽と民謡という、人民遺産との深く有機的な結合に基づくもので、高度に専門的な熟達した技能を要するものである。そして、もう一方の方向性は、ソビエト芸術とは相容れない形式主義を生み出している。幻想的な新機軸という旗印を掲げて、唯美主義者たちのごく個人主義的な嗜好を満足させるために、古典的な遺産を拒み、音楽の持つ国民的特徴を廃し、人民への奉仕をないがしろにする方向へと向かっている。》

※註釈1) 「形式主義の典型。ショスタコーヴィチの交響曲第8番、プロコフィエフの6番、および一連のピアノ・ソナタ。ハチャトゥリアンの交響詩。ポポフの交響曲第3番。ミャスコフスキーのピアノ・ソナタ。シェバリーンの弦楽四重奏曲など」が演奏禁止目録に収められた。

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第五部 戦勝と検閲社会復活

 1945年5月、ドイツは無条件降伏をする。ソ連国内は「大祖国戦争」勝利を大いに祝った。既にこの時点で第8番まで交響曲を物していたショスタコーヴィチもまた、戦勝日の翌日にエッセイを発表し、次のように述べた。
 古典になるべき作品を作らねばならない時、永遠の生命をもった作品・真に人類の財産になるべき作品を創造しなければならない時がやってきた。
 「古典」「永遠の生命」「人類の財産」そして、交響曲作家には特別の番号である九という数字。誰もが、近代ヒューマニズムの結晶・ベートーヴェンのニ短調第九交響曲を想起する。そう、ソ連が世界に誇るべき作曲家が次に作るのは第9番である。しかも第7番、第8番という大編成交響曲を経て、「戦争三部作」を完結させる記念すべき交響曲である。このエッセイを読み、ショスタコーヴィチの創作に注目する人は皆、《ショスタコーヴィチの「第九交響曲」》を期待した。そして彼の《第九》が1945年11月3日にムラヴィンスキーの指揮で初演された時、誰もが驚愕した。その室内楽的構成に。その、典雅な悪ふざけの極致のような、シニカルな楽想に。そして、彼の音楽を諒解する仲間たちは「生きる喜び、陽気な気分、縦横の才気、そして、辛辣さに溢れている」(ガヴリール・ポポフ)この曲を総じて好意的に受け入れたが、それ以外の人間は「おどけてグロテスクなユーモアを感じさせる」と評した音楽学者ネスティエフのように、まずは困惑した。
 尤も、当初のショスタコーヴィチの思惑では、大編成の「古典になるべき」「永遠の生命をもった作品」を作るつもりであったらしい。ただしこれは破棄され、結局発表されたのはモーツァルトの初期交響曲のような小さな構成に、ハイドンの茶目っ気を煮詰めて芥子をきかせたような味付けをした交響曲だった。容易に予想される通り、この曲ものちに当局の非難にさらされることになる。

 戦争に、負けた国は劇的に変わるが、勝った国は当然現状維持、もしくはその体制を強化する。たまさかの《粛清の減った喜び》を味わったソ連文化界だが、この鉄の国は冷戦が始まったと同時に、再び抑圧的自己批判的な検閲社会へと逆戻りする。
 1946年、まずは音楽に先立って映画界が抑圧された。世界に名の知れた映画監督であるエイゼンシュタインも例外ではなく、《イヴァン大帝》第二部が「事実を歪曲したかどで」非難され、改作を余儀なくされた。この大監督は改作の最中、心臓麻痺で死亡している。

 音楽界へとその圧迫の腕が伸びたのは1947年で、最初に的になったのはムラデーリのオペラ《偉大なる友情》であった。1947年11月に初演を行った同オペラは翌年1月、スターリンら政府首脳の観劇を受けた。彼らはこの作品を「失敗作」と断言した。北カフカースを舞台にした革命内戦を扱ったこの作品に出て来る指導者が、かつてグルジアでスターリンと争った人間をモデルにしていることが、首脳がヘソを曲げたきっかけであったようだ。
 ムラデーリはその非難を全面的に受け入れるだけではなく、《自らの個人的罪に対する非難の網をソビエト音楽社会全体に投げかけ、ソビエトの指導的音楽家たちに対する取り調べを強化して、大規模な粛清に発展させるのに有利な情報を、ジダーノフに提供した》。
 1948年1月10日に行われたソヴィエト音楽家会議で、文化政策担当の中央委員会書記ジダーノフは、各音楽家に自己批判および他の作曲家に対する反訴を求めた。それを元にして中央委員会によって提出された決議「ムラデーリのオペラ《偉大なる友情》について」では、作曲家ハチャトゥリアン、ミヤスコフスキー、シェバリーン、そして他でもないショスタコーヴィチが、その作品に「形式主義的ゆがみと反民主主義的傾向」が明瞭であるとして非難され、そして彼らの作品は「演奏禁止リスト」(※註釈1)に名を連ねた。
 これがいわゆる「ジダーノフ批判」である。

 いわれのない非難はそれ自身のうちに、非難する側の自己意識をあらわす場合がある。かつて人を殺して負い目がある革命家は論敵に「人殺し」の罵声を浴びせるし、誰かを裏切ったことに負い目を感じている政治家は政敵に「裏切り者」のレッテルを貼りがちである。自分が言われそうなことを先に述べて機先を制し、それを言われずにしまいたいという心理機制がそこにある。
 当時のソ連の文化審問官はきまって相手に「形式主義」の悪罵を浴びせた。それが本当に悪罵かどうかはともかくとして彼らは、その彼ら自身のやり方そのものがまごうかたなき「形式主義」であることにまったく思いを致していない。文化統制の愚かさ、あるいは愚かな人間が文化統治をすればいかなることになるのかの典型がまさにここに示されている。

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