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第 1 2 3 4 5 6 7 8 9 部


第九部 巨星墜つ

 ショスタコーヴィチはそもそも病気がちではあったけれども、1970年前後を境にしてその体力は衰えていく。彼には元々、右手が痺れる持病があったのだが、1969年秋に検査を受けた結果、それが不治の病であることが明らかになった。この頃になると、持病の治療と演奏準備を交互に行っているような状態になる。

 1971年、彼は結果的に最後となる交響曲、第15番の構想を始める。調子がよくない体と相談しながら、この交響曲が静養先レーピノで完成したのは7月29日だった。
 この年の9月半ば、ショスタコーヴィチは二度目の心臓発作を起こし、また入院を余儀なくされた。すでにその体に、往年の覇気はすっかり失われていたが、そんな彼を喜ばせたのは、息子マクシムの成長である。
 マクシムは(彼が語っているところによると)彼の父が作曲した交響曲第8番を振ったムラヴィンスキーの指揮ぶりに霊感を受け、長じて指揮者となっていた。交響曲第15番を初演したのは、誰あろう作曲家の息子マクシムである。管弦楽はモスクワ放送交響楽団で、1972年1月8日の初演は大成功に終わった。
 なお、レニングラードでの初演はかつての盟友、ムラヴィンスキーの指揮で行われた。これはわれわれを少しほっとさせる。ショスタコーヴィチは、自作を演奏するムラヴィンスキーの指揮ぶりを久しぶりに目にし、改めてその統率力に感銘を覚えるのであった。

 彼はこの年、交響曲第15番のベルリン初演、ロンドン初演への列席など、盛んに外国を訪れるが、体調はその意に反するかのように悪化の一途を辿る。心臓の不調、手の麻痺に加えて腎結石、肺ガンがみつかり、作曲活動は中断される。

 1974年、彼は最後の力を振り絞って、作曲活動を行う。5月、弦楽四重奏曲第15番を完成させた。6つのアダージョ楽章からなる構成はやはり特異である。ショスタコーヴィチが自らに捧げる鎮魂歌というべきだろう。続いて《ミケランジェロの詩による組曲》を完成させる。ミケランジェロとはあのルネサンス期の画家ミケランジェロ・ブオナローティで、やはり「死」を中心にした詩篇が選ばれている。これは12月23日、バスのネステレンコ、ピアノのシェンデローヴィチによって初演されている。

 遺作となったのはヴィオラ・ソナタである。1975年7月5日、ショスタコーヴィチは、既に初演ソリストとして決めていたベートーヴェン四重奏団の新ヴィオリスト、フョードル・ドルジーニンに電話をかけて、この曲の構成を説明し、またこれが完成したことを伝えている。しかし既に全身に転移していた癌は、彼にこの曲を聴く猶予を与えなかった。電話をした次の日の夜、ショスタコーヴィチは深刻な呼吸困難に陥り、入院することになる。8月1日に一度退院するものの、二度目の呼吸不全に陥り、それにより心臓発作を併発する。ドルジーニンはどうにか作曲者の前でこの曲を響かせようと、ピアニストのミハイル・ムンチャンとともに、夜通し練習を重ねた。
 しかし初演を待つことなく、遂に1975年8月9日の18時半、ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチは、粛然と世を去るのである。69歳を目前に控えた死であった。

 ヴィオラ・ソナタの初演は、10月1日、レニングラード・フィルハーモニー小ホールにて行われた。超満員の観客はホールに到底入りきらず、扉を開け放しての演奏だったという。
ソナタは、ほとんど催眠術のような強い作用を聴衆におよぼした。ホールで唯一の空席であるドミトリー・ドミトリエヴィチの席には花束が置かれ、そこから遠くない場所に、エヴゲーニイ・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキーが、わたしの妻と並んで座っていた。彼女によれば、ムラヴィンスキーは、まるで子供のように、止めどなく涙を流していたが、ソナタが終わりに近づくにつれて、文字通り、慟哭に身を震わせていた。ソナタの成否について語るのは、まったく不適切である。舞台の上と聴衆の心の中で生じたことは、音楽の範疇を超えていた。われわれが演奏を終えたとき、わたしは、ソナタの楽譜を頭上に高く掲げた。聴衆の喝采を残らずその作曲者に注ぐために。(ドルジーニンの回想。千葉潤『ショスタコーヴィチ』より引用)


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