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※註釈1)
ペトログラードはレーニンの死後、レニングラードと名が変わる。さらにソ連崩壊後ここは、サンクトペテルブルグという名となる。全て同じ都市の名称である。

※注釈2) 大喝采をみて、優勝はオボーリンか自分だと確信したそうな。

※注釈3) 時折「ショスタコーヴィチはショパンコンクール第2位」という表現がなされることがあるが、当年の第2,3位はポーランドのピアニストである。ショスタコーヴィチは名誉賞(あるいは「特別賞」で、敢闘賞のようなもの▼結果的にこれはピアニストとしてのの名を上げるきっかけになり、帰国後オボーリンと共同で開いたリサイタルで経済的に余裕が出来た。

【補筆1】 コンクールから帰国後すぐに「反骨作曲家」プロコフィエフとの知遇を得ている。

【補筆2】 散々だったとはいえ作曲家の、初作オペラ《鼻》への自信は相当なもので、このオペラを評価するかしないかでその人を判断したほどだという。

※注釈4) 《マクベス夫人》はニーナに捧げられた作品である。のちにニーナに先立たれたショスタコーヴィチは、世界的成功をおさめたばっかりに当局に目をつけられ演奏禁止とされたこの不幸なオペラを、どうにか再び世に送ろうと努力を続ける。それは彼にとって、ニーナの復活の儀式だった…といえば感傷的になろうか?

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第二部 気鋭の青年作曲家

 1919年、かくしてショスタコーヴィチはペトログラード(※註釈1)音楽院へ入学し、作曲科とピアノ科で音楽を学ぶ。ただ1917年にロシア革命が起こって以来、国内経済事情は混乱の一途を辿っている。内戦が続くロシアでは、必需品はまず赤軍に回され、民衆の間では物資の欠乏が続発した。それは1920年代の半ばまで改善されず続く。
 物資不足の苦難の中、ショスタコーヴィチは、リムスキー=コルサコフの高弟であるシテインベルクに作曲を学び、のちに作品番号1を背負う《スケルツォ》などを作曲、そのシテインベルクに献呈している。
 やがて卒業の時期をむかえるが、父親が突然肺病に倒れ、また本人も同じような病気で臥せることになる。家計逼迫と体調不良ゆえに卒業は二年延長され、1924年、音楽院作曲科の卒業作品としてショスタコーヴィチは交響曲を選択、作曲に着手する。彼はスケルツォから書き始めたのだったが、しかしこれがプロコフィエフやストラヴィンスキーの影響を大いに受けたモダニズム的雰囲気をもつ作品であり、リムスキー=コルサコフの伝統を陋守する師シテインベルクに酷評される。しかしショスタコーヴィチの交響曲第1番は1925年7月1日にめでたく完成、1926年5月12日、ニコライ・マリコ指揮レニングラード・フィルによって初演が行われ、なんと大成功をおさめる。その日は観衆の大喝采のなか、スケルツォがアンコール演奏されるほどだった。これよりのち、ショスタコーヴィチはこの日を「第二の誕生日」として祝うことになる。
 ちなみに、この交響曲第1番の海外初演を行ったのは、いまだに日本でも人気の高い指揮者、ブルーノ・ワルターで、1926年2月6日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるものである。

 二年目のジンクスとはよくいわれるが、ショスタコーヴィチも、大成功をした交響曲第一番のあとで、作曲技法に関して行き詰まり、一年あまりスランプ状態になる。同時に、レニングラード音楽界のなかで感じる圧力もあった。ほんらいショスタコーヴィチのような新進気鋭の自国作曲家をこそ保護育成しなければいけない、地元のレニングラード現代音楽協会が、ショスタコーヴィチから距離を置いて運営されていく。この組織は、ショスタコーヴィチの斬新な作曲術に抵抗をもつ、「旧態依然とした」リムスキー=コルサコフ派が実権を握っているのだった。音楽界の保守的な層にはもちろん、改革派と目される現代音楽協会にもそっぽを向かれ、ショスタコーヴィチは孤立の度を深める。
 そんな中、ソ連音楽界は、内乱の混乱をようやく脱しつつあり、歴史に残る新作が次々に初演されるようになる。リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》、ストラヴィンスキー《プルチネッラ》、ベルク《ヴォツェック》などが、キーロフ歌劇場において相次いで披露された。さらに、当のショスタコーヴィチは、1927年も早々に行われた「ショパン・コンクール」にソ連代表として出場、ショパンを弾いて喝采を浴びる。本人は優勝を確信したが(※注釈2)、結局優勝はオボーリン、名誉賞を受賞する(※注釈3)

 そのような刺激に溢れた状況の中、ショスタコーヴィチは1927年3月に、国立出版所から「十月革命」をmotiveにした交響作品の委嘱を受ける。それはやがて、合唱付きの交響作品、交響曲第二番《十月革命に捧げる》となって結実する。1927年11月5日の初演も大成功をおさめる。

 1928年にメイエルホリド劇場の音楽監督に就任したショスタコーヴィチは、ゴーゴリの原作をオペラ化した《鼻》の作曲に没頭した。彼はいつものように自作に自信満々だったが、1930年1月に行われた初演は散々な評価に終わる。それではとバレエ《黄金時代》を作曲するが、ショスタコーヴィチの斬新な音楽を当事者の誰も理解できず、演出・踊り手・音楽がちぐはぐなまま、同年10月の初演を迎え、これまた散々、観客の冷笑に遭う。いっぽう《黄金時代》が出来上がってその準備に四苦八苦していた頃にレニングラード国立バレエから委嘱されたバレエ《ボルト》の作曲もまた行う。こちらは1931年4月に初演が行われるが、前二作の更に上を行く不評で、アッというまにお蔵入りとなる。現在《ボルト》は組曲化され、交響曲CDのカップリングやショスタコ・コンサートの前座でしばしば聴かれる曲であるだけに、いまとなってはなかなか信じがたい話ではある。

 さて、ショスタコーヴィチは1932年5月13日、ニーナ・ヴァシリエヴナと結婚式をあげた。1927年に知り合った当時、彼女はレニングラード大学物理数学科に在籍する、18歳の学生だった。ドミトリーの母から再三反対されたにもかかわらず、彼らはついにこの日、《母や姉、花嫁の家族に知らせることなく》結婚した。ニーナは、物理学の研究者となってからも、時代に翻弄され続ける作曲家を、死ぬまで支える。

 歴史に名を残すためには「自分に対する図太い自信」が必要不可欠なのだろうと思われるのは、引っ込み思案で優柔不断傾向のあるこの、1931年現在25歳の青年ショスタコーヴィチが、オペラもバレエも(反響だけみれば)散々な結果に終わっていながら、全くダメージを受けていないように見受けられるからである。
 彼はこの年の夏、意気軒昂にして、大作オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》の創作を猛然と始める。そしてこれがのちに、ショスタコーヴィチの運命を変え、ことによると作曲家生命を吹き飛ばしかねぬほどエライ作品となるのである。
 ニコライ・レスコフの書いた小説による《ムツェンスク郡のマクベス夫人》の筋は、スキャンダラスではある。次のようだ。〈欲求不満の人妻カテリーナ・イズマイロヴァは、野卑だが魅力的な使用人セルゲイと関係してしまう。不義の関係を続けるなかで、それを感知した舅と夫を殺害する。やがてそれが露見し、シベリア流刑となる。愛人に捨てられたが思いを断ち切れないイズマイロヴァは、セルゲイの新しい恋人とともにヴォルガ河に身を投げる。〉 ショスタコーヴィチは音楽で、観客が感情移入すべき対象とそうでない対象とをざっくりと塗り分けた。カテリーナのアリアに抒情的旋律的な音楽を与え、取り巻きの無理解者には雑然とした旋律を与えることによって、作品を分かり易いものとした。初演に先立つ3月、既に書き上がっていた部分に関して、彼はボリショイ劇場のスタッフを前に試演を行い、非常によい評価と、正式な契約を得た。
 《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は1932年12月7日に完成、新妻ニーナへ捧げられた(※注釈4)。1934年1月22日、レニングラードで初演された。

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