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【補筆1】 音楽史的には関係ないが、当時の要地レニングラード防衛作戦を主導指揮したのは、かつてノモンハンで日本軍をボコった名将、ゲオルギー・ジューコフ将軍である。

※注釈1) 消防団として活躍している彼の写真は、内気な少年が責任感という薄い革袋を被って気負っている、そんな印象である。感銘を覚える。

また、戦時テッパチを被り、前を見据えるショスタコーヴィチの写真が英TIMEの表紙を飾ったのもこの頃である。


※注釈2) ショスタコーヴィチは、初演指揮者ムラヴィンスキーにこの曲を捧げた。受けたムラヴィンスキーはそれにいたく感動したようで、同曲のスコア(総譜)に演奏記録をつけ続けたという。

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第四部 大祖国戦争

 1941年6月22日、それまで西と南に膨脹していたドイツが突如ソ連に侵攻を始める。よもやヒトラーがソ連を攻めてくることはあるまいと対独戦の心算などまったくしていなかったスターリンは茫然自失、クレムリンは一時機能停止状態に陥る。この傍若無人の独裁者は「ドイツ軍来襲す」の報に触れたとき、驚きのあまりクンツェヴォにあった自らの別荘に雲隠れしたという話もあり、少なくとも開戦から十日余り、防衛指揮はまったく執られなかった。
 緒戦の勢いを駆って進撃するドイツ軍は、二ヶ月余りでレニングラードを包囲した。ドイツによる対ソ連戦線の最北端に位置し、枢軸側のフィンランドにも接する重要都市レニングラードはこののちも閉塞され続け、ドイツによる包囲は900日余りも続く。

 しかし、皮肉というべきは、歴史をひもとくとしばしば見られることだが、内戦や対内謀略戦を繰り広げていた集団が、外部の敵に対峙して突然内的結束を固めるという例が、この対独「大祖国戦争」を始めざるを得なかったソ連にも明瞭に見られたことである。これまで「粛清」と称する理不尽な処刑を繰り返してきたスターリンだが、どうにか気を取り直したこの希代の独裁者が震える声で全ソ連に対し「同士たちよ、市民たちよ、兄弟、姉妹よ!」と呼びかけた時、一時的にせよ、このユーラシア大陸の半ばに達しようかというほど巨大な国家は一丸となって防衛戦に当たったのである。そして皮肉ながらこのことは、検閲と逮捕監禁、そして粛清に戦々恐々としていたソ連の作家たちに時ならぬ「自由な創作環境」を与えた。戦時中、レニングラードだけでも、192曲の音楽(歌曲は除く)が作られ、そのなかには9つの交響曲と8つのオペラ、16曲のカンタータ、5つのバレエが含まれていたという(クシストフ・メイエルの研究による)。
 そして生粋のレニングラードっ子であるショスタコーヴィチも、交戦状態の緊張のなか異様な興奮状態にあったとされ、人民義勇軍への入隊を何度も希望する。しかし「あなたには他にするべき仕事がある」として断られ、結局、音楽院の屋根を焼夷弾から守る消防隊に配属された(※注釈1)。砲弾による興奮状態が持続するなか、1941年7月19日、彼は交響曲第7番の作曲を始める。二ヶ月あまりのちの9月末にレニングラードを離れクーイブイシェフへ疎開するが、そこでも書き続けられ、12月末に完成する。この長大な交響曲はレニングラードに捧げられ、名も同じく《レニングラード》とされた。初演は1942年3月、クーイブイシェフで、サモスード指揮ボリショイ歌劇場管弦楽団によって行われた。
 もっとも印象的なのは、封鎖中のレニングラードで、1942年の8月9日に行われた演奏会である。1941年の記録的な大寒波と飢餓を生き延びた放送管弦楽団のメンバー15人では到底足りず、すでに引退した音楽家や、兵士として参戦していた音楽家が、急遽、前線から呼び戻された。楽譜は、軍関係者によって前線をぬって運び込まれ、当日は、ドイツ軍による中断を阻止するため、直前までソ連軍による集中爆撃が続けられた。ことは、国家の威信を賭けた一大事業に発展していたのである。フィルハーモニーのホールは超満員の聴衆で埋め尽くされ、熱気と興奮に包まれていた。誇り高いレニングラード市民が、自分たちに捧げられた交響曲をとおして、今一度、人間としての尊厳を取り戻した。(千葉眞『ショスタコーヴィチ』より)

 1943年、次第に、戦況がソ連有利にかたむいていく。2月に行われたスターリングラードの戦いでドイツ軍を押し切った赤軍は、続いて同年7月に始まり8月末に終わる、第二次大戦史に名高い「クルスク戦車戦」でドイツ軍に多大な出血を強い、以降独ソ戦は終戦まで、ソ連優位の状態で進んでいく。
 そんな中、ショスタコーヴィチは新しい交響曲に従事する。7月2日に着手したとされるこの曲は、第7と同じく戦争をテーマとしており、5楽章構成の巨大な交響曲である。疎開状態のなか、この交響曲第8番は二ヶ月余りで、9月9日に完成した。
 初演は1943年11月4日、ムラヴィンスキーとソ連国立交響楽団によって行われ(※注釈2)、一応の成功を収めた。しかしながら、第7と相違して苦渋に満ちたような難解な表現と深刻なフィナーレは聴衆を困惑させるのに十分だった。翌1944年春、作曲家大会総会において、この第8番は酷評を受け、「問題作」の評価が固定する。この評価はのちの1948年、同曲の演奏禁止令によって公的に明示されることになる。

 勢いで厳寒の地に突入してきたナチス・ドイツはじわじわと、もと来た西へ西へ、押し込められていった。1944年は、「大祖国戦争」の勝利の予感とともに過ぎていく。
 しかし戦争の勝利はいいことばかりではない。西からやってきた、歴史上例のない成功と失敗および例のない大虐殺を十年弱で収めた希代の独裁者を西に押し返したソ連国民は、再び国内の、やはりこれも歴史上例のない、虐殺をものともせぬ希代の独裁者を相手にせねばならなくなる。彼スターリンはその鎌で、再び国民と文化人、そして――西の独裁者の仕事を引き継いだかのように――ユダヤ人の首を刈り始めるだろう。

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